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片田舎で働く元システム管理者の日記 ver.2

日常の由無し事を書きつくっています。

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立冬

『暦便覧』では、「冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也」ということで、今日から、立春の前日までが冬ということになる。冬は嫌いな季節では無い。私は汗をかくことがあまり好きでは無い。スポーツをしたでも無い限りにおいては汗はかきたくない。しかし、夏では何もしていないのにじんわりと汗をかくようなことはままある。それが苦手なのである。元々、体温が低いことでもあって外気温が悪いと途端に体調を崩す。アクティブになると言うことは無いのである。

娘も先だって、何やらのウイルス性の風邪を保育園で貰ってきており、4日ほど大変な高熱を出していた。40℃近い熱が出ても、ぐったりすることも無く、食欲が進まない程度で無事に快癒してくれた。体が丈夫である事は私どもの夫婦にとっては大変に有り難い事である。これで病弱だったとしても娘の可愛さには何の変わりも無いが、親孝行という意味ではまずは第一の親孝行であると言える。ありがたいなといつも思っている。

11月の頭になると思い出す事があるのだ。それはまだ、私が福岡にUターンする前の話。その頃は私は名古屋に居た。長期の出張扱いで名古屋に向かっていた自分に対して「長期出張では無く、出向扱いにするので、そちらの案件にズッポリ頼む」と告げられた頃の話である。いくつかの案件が平行して動いていた。期限が、最も近づいている案件から順番に、割と難易度の高い案件の火消しを引き受けることになった。難易度の高さとは技術力の問題だけを指さない。技術力だけで言えば、私などよりも余程に優秀な人々が既に泥沼のような現場で寝泊まりをしながらの作業に追われていた。追記を延々と繰り返す仕様書と終わりの見えない指示書。朝令暮改の如く、前日にくみ上げたロジックを否定されるような泥縄に誰もが疲れ切っていた。そこに突然突っ込まれた。知っている人間は二人しか居なかった。

初日、自分の席には型落ちのノートPC(今でも忘れないIBMのThinkPad)が一台置かれていて、そのカリカリと音を立てるHDDが載った一台のPC以外には何も無かった。ネットワーク用のIDとPASSも渡されず、リーダーとして紹介された人と話をして、IDとPASSを発行してもらって席に着いた。まずは、少々のアレンジを加えた自分なりのエディタなどのインストールをおこなって、夕方のMTGに出席した。そのMTGでは資料の紙も配られたが、既に、期限まで二週間しかなかったが、BTSのチケットは大変な量が未着手のままであり猖獗を極めていた。そんな短いMTGの間ですら、目を血走らせ、顔に脂が浮き、無精髭が生えた人も居れば、目を開けておく事すら辛いといった状況の人も居て、なるほど、この現場は沈没する船の上なのだということを改めて思った。

そこから、先についてはあまり記憶に無い。というか、怒濤のような日々だった記憶が断片的にはある。人生でもあまり類を見ないほど入浴の機会が無かった。自分自身の垢が堆積し、自分で頭をかくと垢が溜まっていた。旨くも無いコンビニ弁当を詰め込むだけの食事で慢性的にビタミン不足だったせいか、爪が脆くなり、薄く禿げるように割れた。何人かの同僚が一時帰宅の度に旅に出たり、行方不明になったり、ドクターストップで病院行きになったり。そんな現場であったことが記憶に残っている。

近頃もそんな現場があるのかなと思えば、今の安穏とした日々(当時に比べれば)に感謝もしている。何より、家人を迎え、娘が産まれたということもあって、家に帰る事に愉しみがある。このような心持ちはついぞ無かった。正直、私のお家大好きっぷりには家人も呆れているんじゃ無いか?とも思う。年末まで走り続ける体力の為にも今月半ばまでは無理せずに行こうと考えている次第。ますます、申し訳ない気持ちになる。そんな我が家がある事に家人に感謝している。

季節の変わり目。ご自愛下さい。忘年会もそろそろ始まっている。今年は出来れば、2つ、3つ程度で。お仕事に関係ない方面で心を落ち着けたいのだけれど。

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誕生日を迎えた事について

ようやっと、折返しに来たように思った。30代ど真ん中である。そういえば、親父が物故したのは40代半ばだった。あと、10年ぐらいでその年齢に達し、家人が今の私の歳ぐらいになって、娘は小学校高学年を迎えて、何か考えているに違いない。

様々の家庭の事情と不幸も起こりえるが、それも私が歳を取ったということの裏返しだろう。私は歳を取る事が怖かったというのは、私自身の変化に起因することでは無くて、私の周囲の人々が私が歳を経る毎に衰えていく事が嫌だったのだ。祖父母も、両親も、兄弟も、従兄弟も、そして、仲の良い親友達も、何処までも生きて欲しいと願っていた。私たちの方が先に死ぬのだという当たり前の事をいう大人達の言うことに抗いたかった。パイロットになりたいと子供の頃思っていた記憶があるが、その前は医師になりたいと言っていたそうである。あらゆる病や怪我は医師が魔法のように治療が出来て、長く永く、私の周囲の人々の命を保てるのだと私は信じていたようだ。無論、今はそのような事を考えては居ないし、死に向き合う機会もこれまでに何度かあったので、構えを作ることが出来ているようである。

構えをつくる事はどのような物事にも当てはまる重要な行動であるというのが、ここに至って思い付く事である。若い頃はガムシャラであった。用意が無くても、気力や体力で乗り切る事だってたくさんあった。しかし、実際にはそれは無理な事でそう簡単な話では無い。その体力と気力の衰えは割と早い段階で自覚するもので、20代前半と30代では全く別物だった。結果として、経験を基にした「構え」を取るようになるし、準備をするようになるのである。その準備の分だけ、気力と体力を使わずに済むのだ。そして、バランスが取れれば、若者を凌駕することが出来る。その事に気付けた事は大きな収穫だったと言ってよい。正直、ここ数年の体力や気力の衰えで、もうすっかり、ネガティブな気持ちが心を支配していたということでもある。

家人を迎え、娘が誕生し、そして、家族としての貌を作る二年ほどだった。そういえば、節目となる歳にその事に取りかかれていた事は僥倖であると言わざるを得ない。今もまだ各種のSNSでのお祝いやメールでのお祝いなど、大量に押し寄せているが、全ての気持ちに感謝し、そして、さらに一年一年と積み重ねていくものがある事をねがってやまない。馬齢を重ねるだけではつまらない。それは年輪のように自分の深みとなる歳の取り方を学んでいきたい。巧く歳を重ねて、3年後、5年後には今の自分を振り返り、「ああ、なるほど」と得心のいく自分でありたい。難しい事だが、それに挑戦する年齢になったということだろう。

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里帰り(家人)について

里帰りに行っていた。そう、家人の妹(つまり、私の義妹)が結婚式を迎える由。お相手の男性も私も会ったことがあった。なかなか美男美女の二人である悪い結婚式にはなるまいと思うのである。ただ、群馬県が遠いというだけに過ぎない。

福岡県に居ると、群馬に帰るのは札幌に行くよりも大変な作業になる。というのは、空港からの距離に依存している。空港からが遠いとこんなにも大変なのか?と福岡で育った上にそれからもそれほど不便な場所で暮らしたことが無いので理解出来なかったということである。群馬はネットでいわれるような「グンマー」というような事でも、秘境でも無い。実際に行けば解るがちょっとした東京郊外ぐらいの街であり、自家用車さえあれば、何一つ不便は無い街であると言って良い。

まあ、それは良い。今回はまずは関東入りを成田空港とした。新規参入のLCCを使ってみたかったという私のわがままと予算の関係が合致した結果の選択である。成田空港には仕事の関係で少々ではあるが、出入りをしていた事があったので、それほど違和感は無かったが、羽田と比べれば不便だなという気持ちにはなる。今回はレンタカーで、一路、横浜へ向かい、家人のネイルを仕上げていただき、終わった後に東京で肉会を開いた。多くの方々が集まり、それは楽しい宴席であった。宴席終了後に群馬入りし、翌日の披露宴に参加。その後は帰宅し、翌日には上諏訪へと義祖母の喜寿の祝いで旅行に出掛け、さらに、一泊後、翌日に長野県から高速道路を成田へ。天気も悪くなく、爽快なドライブであった。

あまり、内容を書かずに列挙するとそうでも無いが、よく考えれば飛行機無しでも移動距離が500キロを超えて、飛行機分も入れれば2000キロぐらい移動している計算になる。良くもこのような弾丸ツアーにしたものだと思わないでも無いが、私と家人にとってはそのようなタイミングでも無ければ会えない人々との邂逅があり、その邂逅によって、エネルギーを貰い、そして、日々の活力にしている面が大きく、愉しい日々が無くては、到底先には進めず、私たちの暮らしも前を向かないのである。

今回もお会いできた方々にはお礼を申し上げるより他ない。皆様のおかげで。というと、卑屈だと言う人も居るが「お陰様で」という気持ちは卑屈なものではなく、高貴な気持ちであり、その心無くしては先には進めないぐらい重要な素養の一つと言って良い。そのような心持ちを持てるのも、また、今回、お会いできた皆様と家人の家族の方々のお陰だろうと思っている。ともかく、忙しく、疲労もしたが、良い充電になった。今年もあと三ヶ月。踏ん張り温泉という言葉がいよいよという所にはなる。

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娘が一歳になった。

平成23年の8月28日。まだ、残暑厳しい日曜日だった。娘が産まれた。昼過ぎに産院に到着し、夕方にはもう産まれていた。安産であり、家人の初産の出産時間の短さは産院でも記録的な速さだったということを後から聞いた。まずは母子共に健康であった事が私にとっては大変に有り難い事であった。その後、娘は無事に成長し、産まれたときの倍ほどの大きさに也、同世代の中でも一回りほども大きい子になった。同じクラスの中でも大きい方なようだ。病気も特別なことは無く、当たり前に誰もが掛かる病気になったのと、インフルエンザに罹患した程度の事でそれも無事にクリアした。同じクラスの他の子と比べて、極端に欠席率が低いのは娘のお陰でもある。

そんなわけで、平成24年の8月28日。娘が一歳の誕生日を無事に迎えることになった。FBやTwitterではお祝いのお言葉をたくさんいただいた。ありがたいことだなと思った。多くの気持ちで娘が成長しているということでもあるし、縁ある方々にはことごとく可愛がっていただいている。きっと、そんな気持ちは娘にプラスに働いていると思うのである。娘が成長した頃には今のようなネット環境であるとは限らず、新しい形のサービスが始まっているかも知れないが、私たちより余程、彼女たちの世代はデジタルな事に自然と溶け込む世代ではあるだろうから、そんな記録(記憶ではない)の始まりとしては悪いものでは無いのかな?とは思っている。華々しいセレモニーなどは行わないにしても、内々だけで集まることにはした。まずはこれで良かろう。9月2日には「餅踏み」をするとのこと、祖父母(娘にとっては曾祖父母)が準備を進めてくれている所ではある。無事に節目節目の予定を過ごしていると言ってよい。

一歳になった娘が出来ることといえば、

1)何となく10歩近くふらふらしながら歩く
2)なんか訴えながら紙を丸める
3)PCのキーボードを叩く
4)マウスをクリックしつつ、ホイールを回す。
5)風呂で頭からシャワーを浴びる

とか、あとは自己主張的な言葉は「ま!」「いた!」などが使える。「いないいいないばー」がブーム。だるまが出てくる絵本が好きなど書いてたら切りが無いけど、たくさんのことが出来るようになった。私自身もたくさんのことが出来るようになった。元々、子供は嫌いじゃ無かったけれど、娘の気配を察知できるようになったし、娘と一緒に寝ていても色々と考えることが出来るようにもなった。おむつもお風呂もこなせるようになった。
無論、私以上に家人も成長したように見える。落ち着き、風格をより一層身に付けたように思えるし、家人として、母として、様々のことをこなしてくれる。家事をし、仕事をし、娘の世話は無論のこと、私の世話までしてくれている。家人の労に報いるには?と思わないでは無いがなかなか出来ないでいる。申し訳ないと思うばかりである。

とにかく、娘に育てて貰っている。そんな一年だった。あっという間だった。あっという間に、三歳になり、あっという間に小学校に入学し、あっという間に中学生になって、気が付いたら、高校受験をしつつ、大学進学などの道を進んでいく娘を見ていることしか出来ないんだろうと思うのである。その頃には好いたらしい男の一人も出来て、きっと、そんな男性と話をする機会もあるのかも知れないし、日常の話をしてくれるのも、せいぜい、いまのうちだけで、その内に自分なりの考えで行動するようにも成るし、親と仲良くすることが気恥ずかしい気持ちになることだってあるだろう。何の手伝いが出来るわけでも無いが、精々、自分なりに働いて、稼いでくる事ぐらいしか、出来ることが無く。あとは、家人と平和に明け暮れを過ごす姿を見せるより他あるまい。まずは娘の一年目にありがとうの気持ちである。

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一緒に住んで二年が経って・・・

家人と棲むようになって二年である。短いか、長いか?と言われたら、これからを考えれば長いとは言えないのでは無いかと思う。婚姻届を出したのはクリスマスであるので、記念日は12月となり、8月の家人の誕生日が二人で棲み始めた日ということにはなるのかと思う。

その間に娘に恵まれたし、様々の出来事があって、毎日、家人の顔を見ている。特別に飽きるということは無い。「女房と畳は・・・」という言葉もあるが、それを実際に云々ということも無く、平和に暮らせているとは思える。家人の不断の努力の末にそのような事になっていると考えているので、この事には感謝してもしきれない。

二年間で、「状況ではなく、自分自身の何が変わったか?」を自分に問うて、変わったところを考えれば、酒量が減ったとか、趣味に費やす時間が減ったとか、単純な変化と同時に内外の差違が小さくなったということも上げられるのかも知れない。
自分自身の内外の差違とは仕事中などのパブリックな場所に居る自分と自宅に帰りプライベートな自分の違いである。元来、外弁慶の気があり、家に帰れば、それほど騒がしい方でも無い。外に出ると騒がしい。逆の内弁慶も少なくないし、どちらが良いという訳では無い。ただ、私は外弁慶ではあるだろうと自認もし、指摘もされた。
以前はその差違は大変に大きく、家に足を踏み入れて、洋服を着替えた所からは、ほとんど喋らずに何も無かったように、部屋にこもるような事でもあった。それが最近では家でも口を開く事も増えた。娘に話しかけることは楽しいし、家人とやりとりすることで安楽を感じることも多々ある。

このような心持ちは以前の共同生活には無かったと言ってよい。以前は、ドライな関係(つまりは相手に気遣いをすることをむしろ避けるような関係)であった。その事が長続きをさせる秘訣であろうとも思っていたし、その時の私とその時のお相手はお互いの事情もあり、脛に傷有りであり、それを選択するというのが、少ない選択肢の中で最良の選択肢ではあったのだろう(と思われる)。しかし、実際にはそれほど長続きもせず、独り身になっていたのである。家人と住み暮らしていく暮らしは、二人がある程度の所まで踏み込んで行かねば成らぬ。私にとってはこれは意識的にしなくては成らない事でもあった。こんな事を言われたものである。

「私に興味が無いの?」

この言葉は思いの外に重い。興味が無い異性と同室出来るほど私の神経は無神経では無いよと以下のように答えるのである。

「興味の無い女と同じ部屋で過ごす趣味は無い」

この言葉を言わねばならぬことは、ある種、自分自身の不徳でもあろうけれど、それだけ相手に興味が無く見えたということに反省もしなくてはならない事なのだと、ここ二年で気が付いたのである。歳こそそこそこに離れている家人のモノの考え方には疑問を持つことも無いでは無いが(これは無論単なる世代差の部類の話であったり、物事に対する段取りの考えだったりするが、どちらも単純な経験の問題であって良し悪しなどではない)、お互いの考えの落としどころはそれほど遠からずの場所に落ち着くのである。三年目に入ったこの暮らしがどのように進んでいくのかは私の考えよりも家人の考えに左右されていくような気がしている。一家の色を決めるのはやはり女性であり、家人であろう。家人の考える理想にはほど遠いかも知れぬが、目標があるなら、そこには近づいて行きたいし、そこに私の居場所があれば、そこにすっぽりとはまる自分でもありたいとは思う。

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プロフィール

HN:
filemente
性別:
男性
職業:
シス管(半分引退)/パチプロ(廃業)/総務経理系の管理部門(現職)
自己紹介:
田舎で一人、中小企業で、システム管理をしているはずが、いくつかの僥倖もあって、ちょっとポジションが変わったことだけ付け加えておく。格別の特徴は無いが、体型は完全なメタボリック体型である。近頃、とみに体重が増えた。また、歳を重ねる毎にアレルゲンが増してもいる。

学生時代から、バイトも含めて、随分と様々の職種をこなしてきたが、偶然にもシステム屋をしている。向き不向きでいうとそれほど向いているとは思わないが、それでも食い扶持を稼ぐためにはしかたがない話なのかも知れない。

結婚をした経験があり、独り身であったが、こんなメタボなバツありのところに遠いところからわざわざ嫁に来てくれる奇特な女性があった。よって、独り身では無くなった。二人身である。二人分の食い扶持のために働き続ける所存。止まらぬ汽車はまだまだ進むのである。

更に、娘まで授かってしまったので三人で暮らしている。家族となった。元来子供好きだったが、半ば諦めていたのでこれもまた僥倖である。家人には頭が上がらない。

というところで、更に、転職と転居を思い切ってしまったので、同じ片田舎であっても、南から北へ移動した。それは良いことかどうかはこれから答えが出るのではないか。

あと、システム管理者以外の業務が主なので「元」システム管理者になった模様である。

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