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片田舎で働く元システム管理者の日記 ver.2

日常の由無し事を書きつくっています。

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ハンバーグの口福

ハンバーグがハンブルグステーキのことであるとか、そういうことをドヤ顔でのたまう方々はそういう要望があるところで食べていただければ良い。Wikipediaでも読んでいたらよろしい。あの巨大な百科事典を目指したサイトは、あらゆる場面で検索上位に顔を出すが、間違った情報の記述も少なくないから、その情報を鵜呑みにして、何処ぞのテレビ関係者のように恥をかけば良い。

子供の頃、ハンバーグというのは贅沢の証だった。私の祖父母の世代、すき焼きはご馳走であったようで、今でも、祖父母はすき焼きを年に数度食べたいものとしてあげる。これは金銭的な問題ではなくて、祖父母の体力的な問題で、近頃ではそれほど肉を食べたくないのだそうである(それでもそれなりには食べているように見えるが)。父母はどちらといえば、ステーキ(私の祖父母の世代はビフテキという言葉を使ったりする)が良かったということである。母は料理好きであったし、父も何故か調理師免許を持っていた(アルバイト経験の中で取得したと聞いた)。私が「ハンバーグが良い」と言うと、「ひき肉はクズ肉も混ざっているようなこともある」というような理由を付けて、あまり良い顔をしなかった。そして、いわゆる柔らかい和牛を良いものであると評価していた。それが贅沢であった世代なのだろう。

話が逸れた。ハンバーグの話しである。子供の頃、アメリカのホームドラマが放送された時、巨大なハンバーグが出てきた。そのハンバーグの上には目玉焼きとパイナップルの輪切りまでのっており、言うなれば、自分の好物がミックスされた上にパイナップルという病気でもしなければ食べられない果物が乗っている。「こんなものが当たり前の食卓に並んでいるのか!なんて羨ましいんだ!」と、いつかはその全部のせを食べたいと願っていた。

母にねだってみたところが、「温かい果物があまり得意ではない」という理由で作ってはくれなかったし、母にどんなにお願いしても、それほど大きなハンバーグにはならなかった。無論、調理道具の問題でもあっただろうし、それを話した頃、我が家は混乱の極みだったし、私は危うく当たり前の学校生活も踏み外しかけていて、その事を失念していたように思う。

長じて、ハンバーグ投げられた事件(頭から水もかぶりましたが)とか、色々とハンバーグにまつわる思い出はあるが、私の中で、巨大なハンバーグというのは、今なお、夢あふれる食べ物の一つである。自宅で作るときも巨大なハンバーグに整形してみたり、とにかく大きなモノを食べたくなる。普通はせいぜい150g程度の量なのだろうが、ついつい、その倍の300g。あるいは、500gというような量に挑戦してみたくなる。上にかけるソースは肉汁を煮詰めて、そこに赤ワイン(あるいは酒)を入れて、グッと煮詰めたものに、ケチャップを加えたものが良い。あるいは、ウスターソースを加えても旨い。ソースの変わりにみりんと醤油を加えれば照り焼き風のソースになる。ハンバーグソースなるものをわざわざ買ってくる必要は全く感じない。あるいは、焼き上がりにシソと大根おろし、加えて、ポン酢をかけてさっぱりといく手もある。惜しむらくは、もう、年齢に抗えず、どうやら、巨大なハンバーグは胃腸に多大な負担を強いるということだけである。その事が、残念でならない。

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娘が三歳になった。

早いもので、もう、娘が三歳になった。2011年の8月28日に産まれたから、今日で満三歳を迎える。健康に育っている事は何よりの幸せと言ってよい。まずは、そのことに感謝しなくてはならない。

今年に入って、ますます、色々と変わり始めていて、例えば、今年の始めから、家人は所属する企業でも立場も変わり、より忙しくなった。つい先日には、母が体調を崩して、おそらくは、人生でも初の少し長めの入院生活を余儀なくされる事になっている。私も久しぶりに社内で人事異動に関するを受けることになっていて、その準備を行っている。祖父母は健在ではあるが、娘の成長速度以上の速度で加齢による衰えを感じてしまう。
自分自身の年齢を省みる事が「成長」ではなく「衰え」によることがほとんどになるのは、いつ頃からだろうか。
「酒が弱くなった」
「食べる量が減った」
「疲れがなかなかとれない」
このようなことは同世代との話題になりやすいから、自分自身がそういう年齢であるという自覚はあったはずだが、平坦な道を進んでいるような話ではなくて、ゆるやかな下り坂とも言うべき傾斜があるらしく、加齢と共に速度を増しているようだ。若いころに自分を心身ともに鍛え上げれば上げるほど、その到達する所は高いところであって、下り坂に入った後の最後の最後は凄まじい速度がついて、一気に駆け下りていってしまうことになるし、自分の衰えに対する驚きもより大きなものになるということだと思われる(この辺りの考えについては別の機会にもう少し書いてみたい)。
逆に、娘はまだまだ上り坂を登り始めたところであって、脚力を鍛えながら、まだまだ登っていくに違いない。実際に、昨年の今頃よりは歩様もしっかりとし、自分で自分のことをしたがる。洋服を着る、靴を履く、あるいは、御飯を食べる。そういった人として当たり前の事に関する習熟度はグッと増して、飲食店でも騒ぐこともない。文字も読めるようになっているようだし、アニメのキャラクターの見分けもついているし、歌も唄える。友達とも彼女たち同士の世界があるらしく、私は日々勉強の毎日となっている。
「明日なら焼肉の日(8月29日)なのになぁ~」
と家人をリラックスさせる為に放った会心の一撃も担当助産師の凍てつく波動(何いってんですか?それどころじゃないですよ(怒))に打ち消されてしまった。あの夏の日がもう三年前だったかと思えば、感慨深い。
これからも娘は次々と成長を続けていくだろう。そして、彼女達の世代がおとなになった時のことについて、私の想像はそれほど明るいものではないのだけれども、時代時代にスマートに寄り添う生き方があると私は思っている。
私でも家人でも無く、彼女の人生であるから、彼女が彼女なりの考えで行動して欲しいし、考えて欲しい。世に言う「三つ子の魂百まで」を迎えるわけで、彼女のこれからも、やっと垣間見えてくるんだなと思えて愉しみなのである。

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オムライスの思いで

オムライスについて、どのような印象を持っているだろうか?洋食の中ではメジャーなメニューの一つであり、嫌いな人はほとんど居ないんじゃないかと勝手に思っているメニューだ。

孫の中では年長であった私は特に祖父母に可愛がられた。弟が産まれた頃といえば、祖父が体を壊していたとかで、通院をしながら自宅療養をしつつ、次の仕事への準備を勧めていたことと重なって、祖父母の家で寝起きをしていた。

祖父母ともに、私は大変に可愛がられたし、甘やかされたとも思う。祖母はその頃、公務員(保育園で給食を担当していた)であって、その公務員の祖母の送り迎えも祖父がしていたように記憶している。いつもは、それほど盛り場を通ることは無いが、祖母が休みの日があったり、何かの記念の日であったり、そういう時には祖父母が連れ出してくれた。

決まって頼むのは、「お子様ランチ」であって、ライスに立っている旗が興味を引いて仕方がないのである。そのライスは「チキンライス」と相場が決まっているが、あるところで、祖父母に連れて行かれた福岡県の今は過疎化している街のデパート(とは言っても、ちょっとした大きなスーパーのようなところだが)で食べた、お子様ランチは、確か、そのチキンライスをふわふわとした薄焼き卵で巻いてあったように思う。

30年以上前のことで、私も完全な記憶であるという自信はないが、チキンライスに玉子までついているということは覚えており、その料理が「オムライス」であるということを教えてもらったのは祖父母からだと思う。

昭和一桁産まれの祖父母は同年代の人と比べても若い趣味を持っていて、祖父母は圧倒的に若かった。服装にしても、食べるものにしてもである。それは祖母の仕事も大きく影響していただろうと思う。様々の献立を料理する中で、祖母の料理の幅は同年代の人と較べても、現在の若い人間が食べる料理も多く作り、いわゆる色味のない食卓になるようなことはない。そのようなことで、私にとって、オムライスは特別な料理になった。

祖母はそれから、自宅でもオムライスを作ってくれるようになったし、母もよく作ってくれるようになった。どちらも、たっぷりの鶏肉の入ったチキンライス(とは言っても、炊き込むタイプではない)に、薄焼きの玉子を焼いて、くるりと巻いたもの。上にトマトケチャップがのせられていた。言うなれば、ベーシックオムライスである。祖母と母のオムライスの違いはチキンライスの質でどちらかと言えば、祖母の方が水分が少し少なめでケチャップの量も控えめであったのに対して、母のそれは手加減なしに調味料も入れた水分多めのしっとりとしたものであった記憶がある。どちらもそれぞれに大好物であった。

長じて、外食で自らがメニューを選ぶ時、どこかのレストランで、オムライスを注文した時、デミグラスソースが掛かっているものが出てきて、度肝を抜かれた。

「ケチャップじゃねえ…」

ケチャップの乗ったものしか知らない私には大変な衝撃であって、それはそれはびっくりしたことを覚えている。食べてみれば、なるほど、デミグラスソースのコクと中に入ったチキンライスの酸味が何やら一体となって、旨いものだと関心し、それが自宅ではそう簡単には作れないものであるという事も自らが料理するようになるときに知った。

その後は、地元を離れて、様々な場所で洋食屋に入り、オムライス、カツレツの二つがお約束のメニューとなった。その中で、日本橋たいめいけんの「たんぽぽオムライス」を注文した時、あのオムレツを2つに割るとトロトロの半熟卵がふんわりと広がる名物であって、この「半熟卵」+「チキンライス」がオムライスであるということを知り、自分の知っていたオムライスがまだまだ狭い範囲の話だったことを知った。

かくして、様々な場所で食べた結果、最後には自宅で食べるオムライスが最も好みのものとなり、少々、かけ過ぎじゃないのか?と言われるほどにタップリとケチャップを上に乗せて食べるオムライスの幸せに戻るということになる。色々食べた結果、最終的に最もベーシックな家で食べていたオムライスに戻ってしまった。

最近、このタイプを当たり前に出してくれる店が減った。先月だったか、先々月だったか、私の好きな作家の一人である山本一力氏が何かの番組で力説していたが、私の言うベーシックオムライスの素晴らしさを語っていた。やはり、色々食べた結果は、そこに戻るのではないかと改めて思った。再び、ベーシックオムライスが復権する日を待ち望んでいる。

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立春を過ぎてから、春の足音とか。

立春は2月4日であったと思うから、すでに、暦では春になっている。今年の気候は少々面白くて、1月末から、2月の頭に、まさに春のような陽気が続き、「もしや、このまま暖かくなるのか?」と考えていたところが、「寒の戻り」という言葉がしっくりと来るような寒さに戻り、雪まで降ってしまった。関東ではそこそこの積雪でなかなか大変だったそうな。

九州も一部ではそこそこの積雪だったそうだが、私の住んでいる地域に限って言えば、ほとんど影響は無かったと言ってよい。元々、気候も含めて、本当に安定した地域でもあるので、福岡に住んでいると、天災の類に関する感覚が鈍くなるような気もする。

2月14日から17日にかけて、里帰りで実家のある群馬県へと旅をした。福岡から群馬となれば、それなりの旅行のようなものであると言ってよい。近間に実家がある方が、双方にとって都合がよいという事ぐらい私にも理解できる。が、そんなことは選択的にそこだけを絶対条件にした場合以外には決められない事でもある。

というわけで、「まるで、雪かきをしに来たようだ」と笑い話になるような降雪を経て、福岡に帰り、翌週には家人がインフルエンザに罹患し、その自宅療養終了直後に、娘にも罹患し…。我が家としてはあまり喜ばしくない状況に陥った。結果、二月の二週目以降の様々の予定は先送りになり、とてもとても、夫婦二人でクリアできるような状況でもなく、私の母の協力も得て、何とか乗り切り、今週からの通常ペースを取り戻したというところである。

気が付けば、2月は終わり、3月となった。逃げ月は逃げて、別れの月を迎えたと言ってよい。別れの季節と言えば、聞こえはよいが、つまりは、人生の岐路に立っている人も増えているという事でもある。近頃の凄惨な事件を思えば、それもまた、春の話題に煽られてなのではないかと思わないでもない。

今日も、朝、娘を保育園に送り、私はそのまま出勤し、家人も無事に出勤出来ており、月末並びに月初の忙しさと年度末の祭りが合わさった慌ただしさが始まったところである。始まりがあれば終わりもあるとはいえ、今月からGWまでの間に息を抜く暇もないというのが正直なところとではないか。

一年の内にも忙しい季節がある。日本人の多くは、主に冬の季節に忙しさのピークを迎えるような気がしている(業界によるとは思うが)。年度という考えに則って、仕事をしている人も少なくない。それを考えるとき、暑い夏に汗を流し、冷え込み、閉じこもる冬にはその成果で食べていたという時代を感じる。年度末を含む、冬から春先の忙しさというのは晩春から、初冬にかけての働きぶりを評価する仕事が主であると思うのだ。

それは取りも直さず、私が「現場」という直截な場所から離れているという事の証左でもあるだろう。ともかく、この初春までを乗り切り、出会いの季節としての春を待ちたい。

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新年を迎えて

2014年になって、すでに一週間ほどが経った。今更ながら、あけましておめでとうございます。そして、今年もお願いいたします。

我が家は12月のクリスマスが夫婦の結婚記念日となっており、そこから、大晦日、正月とイベント続きになるので、年末年始についてはそこそこの忙しさがある。

年始には祖父母と母のところへ顔を出し、少々、話などもする。遠方にいるわけでもないので、会おうと思えばいつでも行けるのだが、なかなか、そうしないのはお互いがお互いの家に住んで、暮らしを営んでいるということなので、それをお互いに阻害しない。または、お互いに干渉しすぎないという方針があるからだと思っている。不干渉ではなくて、過干渉を避けるということである。人間関係にも通じることではないかと思うのである。

2014年がどのような年になるか。それは、簡単に予測できるようなことではないが、今よりもそれほど景気が良いわけでもないだろうし、増税や社会不安などもあって、充実した一年とはならないのではないかと思えるが、そんな生きづらい中でも、生きていかなくてはならない。暗いと考えるのは簡単で、見通しが暗いからと言って、それをただ受け止めるだけでは先がない。

2014年は先に進捗する日々でありたい。2013年の自分より先に進める自分でありたい。それがおそらくは家族のためにもなるに違いないと思っている。

そういえば、家の近所の神社に初詣に行った。初詣では家族の健康と幸せ、そして、縁ある人々のますますの繁栄を祈ってみた。関わる誰しもが進捗する一年になればよいなと願っております。

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プロフィール

HN:
filemente
性別:
男性
職業:
シス管(半分引退)/パチプロ(廃業)/総務経理系の管理部門(現職)
自己紹介:
田舎で一人、中小企業で、システム管理をしているはずが、いくつかの僥倖もあって、ちょっとポジションが変わったことだけ付け加えておく。格別の特徴は無いが、体型は完全なメタボリック体型である。近頃、とみに体重が増えた。また、歳を重ねる毎にアレルゲンが増してもいる。

学生時代から、バイトも含めて、随分と様々の職種をこなしてきたが、偶然にもシステム屋をしている。向き不向きでいうとそれほど向いているとは思わないが、それでも食い扶持を稼ぐためにはしかたがない話なのかも知れない。

結婚をした経験があり、独り身であったが、こんなメタボなバツありのところに遠いところからわざわざ嫁に来てくれる奇特な女性があった。よって、独り身では無くなった。二人身である。二人分の食い扶持のために働き続ける所存。止まらぬ汽車はまだまだ進むのである。

更に、娘まで授かってしまったので三人で暮らしている。家族となった。元来子供好きだったが、半ば諦めていたのでこれもまた僥倖である。家人には頭が上がらない。

というところで、更に、転職と転居を思い切ってしまったので、同じ片田舎であっても、南から北へ移動した。それは良いことかどうかはこれから答えが出るのではないか。

あと、システム管理者以外の業務が主なので「元」システム管理者になった模様である。

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