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片田舎で働くシステム管理者の日記 ver.2

日常の由無し事を書きつくっています。

ある逃亡者について-精神的膂力と関係性に生きる-

事件だというのは簡単だが、そう簡単には終わらせない事情がそこにはある。昨夜半にオウム真理教の元信者(でいいのかな)の菊池直子容疑者が逮捕された。もう主要な逃亡犯で捕まっていない人の方が少ないようだ。時効を迎えている事案もあるわけで、それだけの年月が経ったと言うことは感覚的にも判る。ちなみに地下鉄サリン事件から17年の歳月が経っている。

その犯罪の重さについては今更言い立てる必要を感じない。それがたとえ、狂信的信教から生まれた価値観の相違によって起こった不幸であったとしても、他者へと影響を及ぼす類のものであってはならない。信教とは、自分の心内(こころうち)にあるものであって、それらを他者へと強要するべきものでは無いはずだ。一部の一神教において、それ以外の神をあがめる事を許さず、あまつさえ、他の宗教の神を悪魔だと言い切るような宗教も見受けられるが、私はそのような多様性の少ない宗教についてそれほど感心しない。そういう意味で、日本における「八百万の神」「付喪神(九十九神)」と言った考え方に賛同している。その辺は別の話ではあるが。

逃亡生活について書かれた本はいくつかある。リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件の容疑者である市橋達也被告の手記などが記憶に新しいところか。中身については読んでみるより他ない。ただ、そのもやもやとした気持ちを持って暮らしていく事に対しての苦しみとか、その中でしぶとく生きていく様を考えれば、自殺という選択肢を選ぶ人に対しての非難など出来ようはずも無く、それはある意味で繊細で純粋であったという言い方も出来るかも知れないと思ってはいる。

あるべき自分になれない自分との葛藤のようなものを感じさせる自殺が多い。例えば、借金苦にして自殺する事がある。しかし、生業があれば多少の借金などは法的にどうにでもなるものだし、命まで取られることなど無い。借金で命を取られるなどということは余程のことと言って良い。逆に財産のあるところでなにやらの不安を感じて命を絶つ事もある。歴史的に見れば、太宰や芥川などもそうでは無いか。彼らが不安に思っていた事を完全に知る由も無いが、寡聞にして、あの二人がなにやら金銭で困ったというような話を知らない。

私も死にたいと思うことや思ったことは一度や二度ではない。何度かの大きなしくじりで本当に自分を消したいと思ったこともある。短期間ではあるがその時の勤めを辞めて、肉体労働にせいを出してみたこともある。その時の事は前ブログに書いた。鬱々とはしていたが、心は穏やかだったのでは無いかと思う。少なくとも顔で笑っているのに心で相手を蔑むようなマネはしなかったし、周囲の人々もしてはいなかった。平常に暮らして羨ましがられるような生活をしている人でもこのようなことでは何の足しにもならない。

しかし、「そんな何の足しにもならない」ことを唯々諾々と受け入れることは一つにはその方が最終的には楽であると言うことを知っていると言うことでもある(この場合は正誤や正否の問題にはならない)。流される楽さは間違いなく存在している。世間に背を向けて生きるようなマネをすることは精神力を要する。周囲の非難や奇異の目に対して、受け止めて気にしないか、全てを受け流すだけの精神的膂力が必要だからでもある。誰もがそんな膂力を持ち合わせているわけでは無い。成功者の中にもその膂力を持ち合わせて居ない人は少なく無い。結果として、成功者がわずかな躓きで命を絶つケースも少なくない。

このように自殺を選ぶかも知れないほどの事が起きたとき自殺を選ばない事。これを精神的な膂力では無いのかと思うのである。または、本来の邪悪というものが存在するとすれば、その根源は邪悪なものも含んでいるようにも思える。
少し考えただけでも様々方向性や辛さ、重さが思い浮かぶのに、それらを引き受けて逃亡生活を送る人々の精神的な膂力はどうか。果たして、彼らが弱くてそこに至ったと言えるのかと思うのである。私には当然前述の市橋容疑者やその他の類似犯や今回のオウム事件の関係者が弱さからそこから逃げ出したようには思えないのである。そこには力強さが感じられるのである(褒めているわけではない、罪科は償わねばならない)。

その精神的な膂力の端緒が市橋容疑者であれば自己愛のようなものであっただろう。そして、菊池直子容疑者や先だって自首した平田信容疑者については信教だったという事なのだろう。しかし、人は誰でも変わる。それは自分自身の中身が変わると同時に周囲の影響を受けても変わる。多くの新興宗教がある種の閉鎖空間で修行と称するような集団生活を強いるのは周囲の情報や刺激からの遮断である。そして、その閉鎖空間内での情報と刺激のみを与え続ける。そうすると体がそれに順応する。そして、宗教であれば、その教義こそが第一義となり、その教祖を崇めるようになる。しかし、逃亡生活を続ける中で他の情報や刺激を与えられる間に薄まり揺らぐ。そして、醒めていくのだと思う。それが醒めたとき、残るモノは罪悪感では無かったか。当然、それは結構な衝撃であったに違いない。しかし、その罪悪感すら薄めてくれるものが、人の愛情だと言うことに驚く。宗教に殉ずるということ無く、男女の関係を持って逃げ続けた人々の多さにその宗教の怖さと薄さのようなモノを感じる。

男女の気持ちは様々である。誰が誰を好きになるか?などと言うことは人によって違うのだ。色恋はまさに複雑怪奇だが、誰が誰と恋に墜ちるか?などと言うことは割り切れるものでも無い。本人同士にしか判らない恋の墜ちる時がある。恋に墜ちた相手が既婚者だったというのも相手の立場で影響されるものでも無いと言うことでもあるだろう。代表的な例としては川田順の「老いらくの恋」や谷崎潤一郎と佐藤春夫の「細君譲渡」などが上がるかと思う。犯罪者と獄中結婚の例も永山則夫死刑囚の例などがある。こういったことを考えると男女というのはなんとも不可思議かつ様々の問題をはらんでいるし、それが恋なのか愛なのかは知らぬけど、どちらにしても関係する相手なくしては成り立たないものではあると思い至る。

「人は関係性の中に生きている」というのは誰の言葉だったか。しかし、なるほど改めて気が付いたのは私にとっては収穫だったのかもしれない。

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プロフィール

HN:
filemente
性別:
男性
職業:
シス管(半分引退)/パチプロ(廃業)/総務経理系の管理部門(現職)
自己紹介:
田舎で一人、中小企業で、システム管理をしているはずが、いくつかの僥倖もあって、ちょっとポジションが変わったことだけ付け加えておく。格別の特徴は無いが、体型は完全なメタボリック体型である。近頃、とみに体重が増えた。また、歳を重ねる毎にアレルゲンが増してもいる。

学生時代から、バイトも含めて、随分と様々の職種をこなしてきたが、偶然にもシステム屋をしている。向き不向きでいうとそれほど向いているとは思わないが、それでも食い扶持を稼ぐためにはしかたがない話なのかも知れない。

結婚をした経験があり、独り身であったが、こんなメタボなバツありのところに遠いところからわざわざ嫁に来てくれる奇特な女性があった。よって、独り身では無くなった。二人身である。二人分の食い扶持のために働き続ける所存。止まらぬ汽車はまだまだ進むのである。

更に、娘まで授かってしまったので三人で暮らしている。家族となった。元来子供好きだったが、半ば諦めていたのでこれもまた僥倖である。家人には頭が上がらない。

というところで、更に、転職と転居を思い切ってしまったので、同じ片田舎であっても、南から北へ移動した。それは良いことかどうかはこれから答えが出るのではないか。

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