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片田舎で働く元システム管理者の日記 ver.2

日常の由無し事を書きつくっています。

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手仕事と開発

手仕事とは手を動かす仕事のことである。私の仕事はそれをある程度否定しなくてはならない。成果物はその手仕事を分解して、効率化、自動化する。そして、効率化していく。システム化とはそういう話なのである。

仕事と作業を勘違いしている人が苦手である。例えば、エクセルのマクロやアクセスで簡単に作ったもので、処理できるものがあるとする。私なら手作業を止めてもシステム化し、それ以降については自動化するように心がける。その業務に誰かの時間が取られているなら、それを自動化することによって、時間短縮とマンパワーの節約。浮いたヒューマンリソースを別のところへ振り分けることを考えるのが良いと思っている。それが私のスタイルである。なのでどこに行ってもそういった作業を行った後に作業をどこまで自動化出来るかについての考えを始める。

私のシステムづくりの最初は紙に手書きをしたり、いくつかのイラスト作成ソフトなどに自由に書き込むところから始まる。移動中や思いつきについてはノートに書いたりする。初期の段階では限界点までそれを広げていける。実現性については時には無視する。多少、荒唐無稽な方が面白い。次にそれを関係者にプレゼンするための資料や資料の説明。もう少し、詳細を書き込み、技術的な裏付けについて考えてみる。自動化は可能だが、人間があるタイミングで作業をしたほうが良い場合も存在しないわけではないので、それについての見極めを行う。

その後、各種の設計等を行い、設計をまとめたところで、UI等を担当するデザイナに連絡をし、イメージを伝えて目で見えるイメージを出せる資料を固める。私はデザインセンスが無いので、その点についてはあまり考えないで出来上がったものに良し悪しを伝えるだけにしている。誠に簡素なものについては私が描いたりもするが、洗練されているとは言い難いものなので、その辺りは担当者へ甘える。

出力を固める。「結果として何が欲しいのか」を最初に決めて、これをユーザと綿密に打ち合わせて、明確にし、出来るだけ時間をとって希望をきいていく。この作業が大きい。大掛かりなシステムは何やら難しいことをしているように思えるが、実際にはそんなことはない。

「入力」をしたものを「計算」し、「並べ替え」し、「抽出」し、「出力」する。


ほぼ全てのシステムと呼ばれるものは単純化するとこれだけのことしかしていない。難しく考えようとしてはなかなか先に進めない。「入力したものしか出せない」し、「こちらが決めた条件に従うこと」しか出来ないのである。勝手に無根拠の数字を出力するならそれはバグを抱えたダメなシステムであると言える。

最初に戻る。手仕事を否定する必要があるとは思う。しかし、私は手仕事が好きだ。延々と封筒に切手を貼るとか、印刷物の校正をするとか、そういった単純な作業を延々と手を使ってするのが好きだ。好きだからこそ解るのである。面倒であると思う気持ちもあるし、効率化したいという考えもあるし、無駄なことをしているなと思うことはままあるが、しかし、その一見無駄に思えるようなことを「黙々とやる」のは嫌いではないからこそ、どうすればよいかが。そして、それが出来る人のことが好きだし、彼らは逆の方向から私と同じ結論に達することが多い。何故かというとそういうことが出来る人は自動化されたことに対して、好意的に受け止め、よりよい方法が無いか?を考えることが出来る人だからである。「黙々とやる」タイプの人はそういった作業の要諦を掴んでおり、脳内で整理され、理論付けられたモノを持っていて、それを手足を使って出力しているのということだ。スタート地点が違うだけで結論が一緒だから協力できるのだ。そして、「黙々と作業が出来ない」面倒だと文句を言うようなだらけたタイプの人間が嫌いである。そういった人間とは仕事をしたくないし、話をしても要諦がわかってないので、まともな事にならない。

ある人が某大手で教育係をしていた。まだ、SEを大量採用していた時代の話で言語がよくわからない新人を研修と称して集めて教育をしていた。その教育係を数年間に渡り、行なっていた氏の発言を思い出す。

「理系文系は関係ない。集中力があり黙々とやれるタイプのほうが伸びる。ある時、美大で絵を描いていたという人間を教育することになったが、数ヶ月でかなりのところまで伸びた。」

ということである。なるほど絵を描くということにも完成やセンスは重要だけれども、一定のところを超えた部分には計算や技術は必要であり、デザインの分野に足を踏み入れれば、それは理論を組み立てた結果として成果物を出すのである。

なるほど同じだなと一つ納得したのだった。web関連の方々もこれぐらいのところから考えたら簡単かもしれないとふと思うのである。

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ある逃亡者について-精神的膂力と関係性に生きる-

事件だというのは簡単だが、そう簡単には終わらせない事情がそこにはある。昨夜半にオウム真理教の元信者(でいいのかな)の菊池直子容疑者が逮捕された。もう主要な逃亡犯で捕まっていない人の方が少ないようだ。時効を迎えている事案もあるわけで、それだけの年月が経ったと言うことは感覚的にも判る。ちなみに地下鉄サリン事件から17年の歳月が経っている。

その犯罪の重さについては今更言い立てる必要を感じない。それがたとえ、狂信的信教から生まれた価値観の相違によって起こった不幸であったとしても、他者へと影響を及ぼす類のものであってはならない。信教とは、自分の心内(こころうち)にあるものであって、それらを他者へと強要するべきものでは無いはずだ。一部の一神教において、それ以外の神をあがめる事を許さず、あまつさえ、他の宗教の神を悪魔だと言い切るような宗教も見受けられるが、私はそのような多様性の少ない宗教についてそれほど感心しない。そういう意味で、日本における「八百万の神」「付喪神(九十九神)」と言った考え方に賛同している。その辺は別の話ではあるが。

逃亡生活について書かれた本はいくつかある。リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件の容疑者である市橋達也被告の手記などが記憶に新しいところか。中身については読んでみるより他ない。ただ、そのもやもやとした気持ちを持って暮らしていく事に対しての苦しみとか、その中でしぶとく生きていく様を考えれば、自殺という選択肢を選ぶ人に対しての非難など出来ようはずも無く、それはある意味で繊細で純粋であったという言い方も出来るかも知れないと思ってはいる。

あるべき自分になれない自分との葛藤のようなものを感じさせる自殺が多い。例えば、借金苦にして自殺する事がある。しかし、生業があれば多少の借金などは法的にどうにでもなるものだし、命まで取られることなど無い。借金で命を取られるなどということは余程のことと言って良い。逆に財産のあるところでなにやらの不安を感じて命を絶つ事もある。歴史的に見れば、太宰や芥川などもそうでは無いか。彼らが不安に思っていた事を完全に知る由も無いが、寡聞にして、あの二人がなにやら金銭で困ったというような話を知らない。

私も死にたいと思うことや思ったことは一度や二度ではない。何度かの大きなしくじりで本当に自分を消したいと思ったこともある。短期間ではあるがその時の勤めを辞めて、肉体労働にせいを出してみたこともある。その時の事は前ブログに書いた。鬱々とはしていたが、心は穏やかだったのでは無いかと思う。少なくとも顔で笑っているのに心で相手を蔑むようなマネはしなかったし、周囲の人々もしてはいなかった。平常に暮らして羨ましがられるような生活をしている人でもこのようなことでは何の足しにもならない。

しかし、「そんな何の足しにもならない」ことを唯々諾々と受け入れることは一つにはその方が最終的には楽であると言うことを知っていると言うことでもある(この場合は正誤や正否の問題にはならない)。流される楽さは間違いなく存在している。世間に背を向けて生きるようなマネをすることは精神力を要する。周囲の非難や奇異の目に対して、受け止めて気にしないか、全てを受け流すだけの精神的膂力が必要だからでもある。誰もがそんな膂力を持ち合わせているわけでは無い。成功者の中にもその膂力を持ち合わせて居ない人は少なく無い。結果として、成功者がわずかな躓きで命を絶つケースも少なくない。

このように自殺を選ぶかも知れないほどの事が起きたとき自殺を選ばない事。これを精神的な膂力では無いのかと思うのである。または、本来の邪悪というものが存在するとすれば、その根源は邪悪なものも含んでいるようにも思える。
少し考えただけでも様々方向性や辛さ、重さが思い浮かぶのに、それらを引き受けて逃亡生活を送る人々の精神的な膂力はどうか。果たして、彼らが弱くてそこに至ったと言えるのかと思うのである。私には当然前述の市橋容疑者やその他の類似犯や今回のオウム事件の関係者が弱さからそこから逃げ出したようには思えないのである。そこには力強さが感じられるのである(褒めているわけではない、罪科は償わねばならない)。

その精神的な膂力の端緒が市橋容疑者であれば自己愛のようなものであっただろう。そして、菊池直子容疑者や先だって自首した平田信容疑者については信教だったという事なのだろう。しかし、人は誰でも変わる。それは自分自身の中身が変わると同時に周囲の影響を受けても変わる。多くの新興宗教がある種の閉鎖空間で修行と称するような集団生活を強いるのは周囲の情報や刺激からの遮断である。そして、その閉鎖空間内での情報と刺激のみを与え続ける。そうすると体がそれに順応する。そして、宗教であれば、その教義こそが第一義となり、その教祖を崇めるようになる。しかし、逃亡生活を続ける中で他の情報や刺激を与えられる間に薄まり揺らぐ。そして、醒めていくのだと思う。それが醒めたとき、残るモノは罪悪感では無かったか。当然、それは結構な衝撃であったに違いない。しかし、その罪悪感すら薄めてくれるものが、人の愛情だと言うことに驚く。宗教に殉ずるということ無く、男女の関係を持って逃げ続けた人々の多さにその宗教の怖さと薄さのようなモノを感じる。

男女の気持ちは様々である。誰が誰を好きになるか?などと言うことは人によって違うのだ。色恋はまさに複雑怪奇だが、誰が誰と恋に墜ちるか?などと言うことは割り切れるものでも無い。本人同士にしか判らない恋の墜ちる時がある。恋に墜ちた相手が既婚者だったというのも相手の立場で影響されるものでも無いと言うことでもあるだろう。代表的な例としては川田順の「老いらくの恋」や谷崎潤一郎と佐藤春夫の「細君譲渡」などが上がるかと思う。犯罪者と獄中結婚の例も永山則夫死刑囚の例などがある。こういったことを考えると男女というのはなんとも不可思議かつ様々の問題をはらんでいるし、それが恋なのか愛なのかは知らぬけど、どちらにしても関係する相手なくしては成り立たないものではあると思い至る。

「人は関係性の中に生きている」というのは誰の言葉だったか。しかし、なるほど改めて気が付いたのは私にとっては収穫だったのかもしれない。

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ミネルヴァのふくろう

Die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.

という言葉がある。翻訳すれば「ミネルヴァのふくろうは黄昏に飛び立つ」となる。ミネルヴァのフクロウとはヘーゲルの「法の哲学」の序文に登場する。ミネルヴァは知恵の女神(知識の女神に非ず)。フクロウはその使者である。ヘーゲルの研究の大家の方々の目に付くとは思えないので、解釈については私なりの解釈で書かせていただくと、

人は一日の終わり(夕暮れ、黄昏)には、その日の失敗を積み重ね、何故そうなったかを考えて賢くなっている。その賢さ(知恵)を集めるのがミネルヴァのフクロウである。という事を転じて、様々の知恵の集合が新しい知恵の源になっていくと言うことが考えられる。実際には「法の哲学」では別の意味合いも含まれてい、今日(こんにち)的な私の意訳を含めた意味では無い本来の意味は別の所にあるのだが、今回はこの点については触れない。興味があるときはヘーゲルの著作をいくつか読んでみるのが良いかも知れない。国内におけるものでは牧野紀之先生の著作などがよろしかろうと思う。元々、簡単な話では無いので読むのも大変かも知れないが、読み応えだけは保証できる。

私はこの「ミネルヴァのふくろう」とは「知恵の象徴」であると思っている。そして、黄昏(夕暮れ)とは古い知識という事だけでは無い。人生の事でもあるように思う。「おばあちゃんの知恵袋」という言葉があるように含蓄された知恵はその人生の時と一緒に蓄えられていくのだと思える。そして、黄昏から夜へと進み、夜明けを迎えるのは死である。その全てとは言わないが、いろいろなモノが失われていくのだ。伝承という言葉があるように伝えられていくモノはあるが、経験を含めた知恵は完全に同一の形に他者に受け入れられるわけでは無い。このこともまた、事実ではあるだろう。このことを思い出すときに、私の中で紐付いているのは任天堂で数々の名作を作られた、故・横井軍平氏の言葉である「枯れた技術の水平利用」という言葉である。「枯れた技術」とは言うなれば、長く使われて黄昏を迎えて、その終焉を迎えようとしている技術である。あるいは取って代わられるかも知れない技術。それを別の角度からスポットを当てて、別の方向へと転換し、再度の命を吹き込む。つまりは、「枯れた技術」は知(知識)であり、「水平利用」という言葉が知恵と同意であると思っている。多くの天才が知恵を持って、ドラスティックな変革を世に問う。彼らの発想の最初は思いつきかも知れない。そして、その推論を理論や実験で埋め合わせていき、合理的な答えを出すのだ。不足する知を後から集めて行く。彼らはある分野には精通しているが、他の部分に脆かったりということがままある。無論、そのようなドラスティックな事を行う人々であるから、他を切り捨てて注力した結果だろうか。
振り返って私はどうか?私は私自身が凡人である事をよく知っている。私の能力(があるとするなら)の多くは才能によって培ったモノでは無い。経験や知(知識)を集合した結果にすぎない。天才的な発想とは縁遠い所で生きている。縁遠いからこそ博覧強記足らんと夢見ている。知を求める道は多くあって良い。才気煥発の天才はその道を行けば良く、そうで無ければ博覧強記を目指して多くの知を集合し、それを経験で料理をするほうが良い。出来ない事を嘆くのは簡単だが、どう考えても前に進むと決めたときに見えてくるモノがあるように思える。そこをこそ目指すべきでその時に目の前に「ミネルヴァのふくろう」が降りてくるのではないかと思うのだ。

私も再度の家庭を持った。娘も抱えた。黄昏を考えるには早い年齢なのかも知れない。しかし、黄昏はいつか訪れる。そのいつか訪れる黄昏について考えを向けないことは無責任では無いかと思うのである。責任を取ることに早い遅いは無い。ともかく、未だに現れない「ミネルヴァのふくろう」の登場を全力で待っている。私の「ミネルヴァのふくろう」がいつ来るのかは私には想像も付かないが、その時には黄昏の寂しさを知ることが出来るかも知れないし、今よりはましな人間になっているに違いない。

そういえば、黄昏(夕暮れ)の寂しさには牛乳が似合うんだそうな。乾杯しましょう。いつかの黄昏に。

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オフィス引越しと環境変化とシステム開発について-2

前回の続き。前回はある商材は組み立てて売るのが本当でメーカーはそうしているが、それを逆にパーツに戻していくことで、それが商品となって流通しているという話。前回、それに関するシステム化をいくつかの会社が取り組んだのだが、簡単に進まなかったと言う話だった。

そして、それは簡単に進まなかった。その原因としては前述の原因(つまりはプロセスとして逆であるということ)に加えて、「販売」「仕入」という観点で考える人が多かった事。売上を伸ばし、数字を大きくする事が力であるという考えである。「利益の追及」は大きな課題なのだが、そのことについて色々と言い出したのは不景気が大きい原因となっている。大手企業であって、内部留保が巨大な企業や健全な経営を行っている会社はそれほど多くは無いのだ。借り入れ等で資金繰りが行われているなど、財務諸表をよく見れば判る話だが、業界的に企業では無く、商店の感覚が抜けきれない人々が多い業界ではそのような理屈はそう簡単には理解されない。だからといって、そのまま放置しているわけには行かない事は判っている。じゃあどうするのか?という話が多く発生した。そこでいくつかの会社は対応を考えて、自分たちのやっている仕事を電子化することを始めた。結果、いくつかの会社でそれなりの成果が出た。しかし、それは「ある程度の諦め」を含んだものであって、その品物の来歴を完全に追うことは困難だということ。

100個の棚があるとして、その棚をばらすとする。ねじを外し、ナットを外し、棚板とその他の部材に戻す作業で完全にナット一本までの本数を管理する手間というのを考えてみると判る。速度を求められるとき、その作業はそれほどには簡単なモノでも無い。ナットやネジが一本ぐらい無くなることはあり得る話だと想像が付く。それを無くさないために多くの手間を取るのだけども、その手間が大変に膨大なものになって来るので、そこまではしないというのが現場の話ではある。この対応策が前向きでは無いという考え方はあるが、逆の発想をすれば、無くなる可能性を見越して、いくつかの部材を多く用意しておく方が、作業時間の短縮に繋がる可能性があるという事でもある。解決策は別にあると言うことであるし、同一方向からの管理態勢の強化では無い解決策があるのだと思ってる。この別方向の解決策を考えるというのは有効で自動化出来ないと思うことがこのタイミングで自動化出来る事例は多数存在する。

そして、人間は両手でそれを調整する。しかし、コンピュータにはそんな機能は無い。考えるコンピュータは未だに完成を見ていない。恋愛をするプログラムを完成させるのは無理ではない。それは恋愛を方程式的に表現できなければならない。それは不可能である。人間のの脳で判断していることを完全にコンピュータで再現は出来ない。それは勘や予感と呼ばれるものである。そんな勘や経験を完全に再現するのは困難すぎる。そして、五体満足である場合において、手足の動きは機械にはそう簡単にはそれを再現できない。これは思考パターンとその結果両方が人間の柔軟性や経験、勘などには遠く及ばないという事を意味する。その点について解決することは困難だが、その答えを出すためのヒントとなるデータを大量に効率的に整理し、提示する機能においてのみ、コンピュータは人間を凌駕する。そこを強化する。そして作業として人間が行っていたことを最大限置き換える事で作業時間を短縮し、出来た時間で別の作業や別の思索や施策を行うことで生産性を上げるというのが基本線である。

上記のような事を考えた上で、今回、私としては別方向のアプローチをギリギリまで取らずに管理するという作業を徹底する方向のシステム設計をしている。これは一つの挑戦だし、関わる方々に一時的に大きな負担を強いる事になる可能性は高いが、一度、その方向で限界に近いところまで進めて、どうしても出来ない部分については別途の対応を行う予定として、既に決定を得た。まずは、6月末までに全ての要件定義を始める予定。この件については私なりの考えを書き留めて、次の仕事に生かす意味を込めて、通常のドキュメントとは別にブログやSNSに考えを書いてみることにする。流行している手法をいくつか新たに加えて行くことにもなる。完成すると網羅的に在籍する会社の業務を管理するERPパッケージとして完成を見るように思う。そして、それは同業他社へも再び出すことが出来るだろう。

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オフィス引越しと環境変化とシステム開発について

オフィスが変わった。転職したわけでも無いし、経営者(自営業者)でも無い。諸事情で支店への期限出向を受けて、しばらく支店へ出社することになる。場所はそれほど遠くも無い。自動車で15分ぐらいであろうか。さほどの時間は掛からない。自転車でもよろしい距離である。

この支店は発足時、建物は既存の建物を買い取ったが、内部のレイアウトや配線、設備設計などについて私が担当した建物で自分としては割とよく出来たと思っていて、4年ほど前の時点で無線LANの導入、IP電話の導入など色々と手を入れていた。ぼちぼちの設備になってはいる。苦労なく入れるものと思っていたものの気が付いたところがそのオフィスに勤務する人々のレイアウト変更などで私が設定したものはだいぶ無駄になっているようなところもあって、それらを正しつつという事になるのでは無いかと思われる。

勤務地を変えることは別に悪いとは思わない。私自身、自分の端末があればベターだし、自由に使える端末とネット回線があれば、仕事の7割ぐらいは事足りる。大げさな話では無く、ノマドワーク(最近、この言葉も微妙になってきましたね)も出来るだろう。特にそれをしたいとは思わない(気晴らしには良いかもしれないが)けれど、そういう環境を作っておいたことは、今回の場合は良い影響があったように思える。

今のところ、三ヶ月で何とかしてくれ(というのは、いろいろな面の見直しなど)と言うことだそうだが、私としてはそれはそう簡単では無いと思えるのだ。仕事のスタイルは固定された定型業務だけで成り立つわけでは無い。極論で言えば、マニュアル化された定型業務こそが最も効率良いのはわかっている。それは人材派遣会社がよく使う方法で、出来るだけ、定型化し、マニュアル化することによって、人間を入れ替えながらでも現場が廻る事が良いとされる。しかし、それは常勤者居ない場合であり、実際にはそう簡単には行かないというのが正直な感想である。

人間味で乗り切れる事は世の中にいくらでも転がっている。これほど様々を自動化、機械化しても、対面販売の店が主なのは設備投資的な問題だけでは無い。全部が自動販売機のスーパーが出来たが潰れたと言うこともあるし、完全な無人化には今のところ至っていないというのが流通業界の答えでもあり、一定以上の規模を出せないお店については、従業員が顧客の名前を憶えておくなどの逆方向のサービスによって、利益を上げる店も少なくない。どちらか一方が正しいと言うことでは無い。しかし、片方へと傾く必要もあるまいし、最適解は社会情勢や地域性によっても大きく異なる。というのが、私の持っている感想ではある。

そして、それはシステム開発の現場においてもある程度当てはまるのでは無いかと思えるのである。ある業界向けのシステムを開発とメンテナンスを続けている。この仕事が今の業務の3割ぐらいを未だに締めているのは、ヒューマンリソースの問題もあるが、何よりも、最初に小さなシステムから始めたことが大きい。最初は以下の要件を満たしたシステムであった。

1)伝票発行
2)伝票記憶
3)伝票修正
4)日付別集計
5)取引先別集計

の5点である。この程度であれば、多少の知識がある人ならエクセルだけでも作れるだろうし、アクセスを使って作る、ファイルメーカを作って作るなどの選択肢もあるだろう。または、書店でいくつか本を買ってくれば、その動作速度や安全性や安定性を考えなければ、多少便利な作り方をしても一週間程度で作れるだろう。SE、PGと名乗る者ならば、一日、二日の仕事であろう(クオリティを問わなければ)。

これにクオリティや業界慣習を組み込んだモノを作った。業界慣習については同業他社も含めて、いくつかの会社にご協力をいただき、また、各所に必須の設備との連動についても可能なモノであることが必須とされた。そちらの設備関係の業者ともやりとりを繰り返し、そうして完成したシステムは昨今のネットワーク化についての対応がその時は考えられておらず、昨今の事情を鑑みて、ネットワーク化、他拠点対応などの処理も加えられて、大きなシステムとなり、一昨年、昨年のメジャーアップデートでそのシステムはある程度の完結を見たと言って良い。新システムでは上記の機能に加えて、

1)顧客管理機能
2)請求書管理発行
3)在庫管理
4)担当者別、車輌別、地域別などの各種パラメータによる集計機能
5)DM発送機能(宛名印刷・Eメール発送・FAX送信)
6)自動現金支払機との連動

などの機能を加え、ネットワーク対応などを行った。このシステムはある業界に特化しているが類似の業界については簡単なカスタマイズが可能になっている(伝票や帳票などはフリーデザインで作れる)。しかし、一部でそれが対応できない商材があり、その商材の取り扱いについて、いくつかの商流がある中で交流はあるが、その商流に特化したERPは長く開発されてこなかった。その商流の商品は日本が世界に誇る商品であるし、多くの人が関わっている業界でもあったし、考え方は他の商品と何の変わりも無かった代わりにその行き先については国内だけに留まらず、生活に密着していたし、必要不可欠な商材であったと言うことでもある。そこにメスを入れるのは容易ではなかった。同様の「プロセス改善」には日本を代表する大企業も挑戦し、なかなか、成果が上がらないと言う状況を前職の関係から少しばかり耳にしていた事でもあった。「メーカー」側はパーツを集めて組み立てる。私が関わっている側はそれをもう一度、パーツに戻して行く作業であり、そのパーツに戻ったモノ、または、途中のモノは世界レベルで見れば十分に価値あるものであったから。

続きは明日に。時間が足りない。

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プロフィール

HN:
filemente
性別:
男性
職業:
シス管(半分引退)/パチプロ(廃業)/総務経理系の管理部門(現職)
自己紹介:
田舎で一人、中小企業で、システム管理をしているはずが、いくつかの僥倖もあって、ちょっとポジションが変わったことだけ付け加えておく。格別の特徴は無いが、体型は完全なメタボリック体型である。近頃、とみに体重が増えた。また、歳を重ねる毎にアレルゲンが増してもいる。

学生時代から、バイトも含めて、随分と様々の職種をこなしてきたが、偶然にもシステム屋をしている。向き不向きでいうとそれほど向いているとは思わないが、それでも食い扶持を稼ぐためにはしかたがない話なのかも知れない。

結婚をした経験があり、独り身であったが、こんなメタボなバツありのところに遠いところからわざわざ嫁に来てくれる奇特な女性があった。よって、独り身では無くなった。二人身である。二人分の食い扶持のために働き続ける所存。止まらぬ汽車はまだまだ進むのである。

更に、娘まで授かってしまったので三人で暮らしている。家族となった。元来子供好きだったが、半ば諦めていたのでこれもまた僥倖である。家人には頭が上がらない。

というところで、更に、転職と転居を思い切ってしまったので、同じ片田舎であっても、南から北へ移動した。それは良いことかどうかはこれから答えが出るのではないか。

あと、システム管理者以外の業務が主なので「元」システム管理者になった模様である。

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