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片田舎で働く元システム管理者の日記 ver.2

日常の由無し事を書きつくっています。

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リアル店舗の行方について

近頃、リアル店舗の在り方について、考えなくてはならないことがあって、そのことについて、考えをまとめたり、披露したりすることを数回やった。ところが、数回やるとその数回が回数が増えていくことになったり、さらに先まで考える必要性が出てきたりと、本業には関わらないところで、そのようなことになった(長い目で見ると関わっているのかもしれないが)。

amazonや楽天が圧倒的に便利だし、品ぞろえも良いし、配送システムも完成されていて、とても早く荷物も届く。今日、欲しいなと思った書籍が早ければ帰宅したときに届いているなんてこともある。これは驚くべきことで、私が中高生だった20年前には、近所の書店に行って、本を手に取って選ぶか、発売予定(日販、トーハンなどの大手の取次が書店に配っていたもの)を観て、注文や取り置きを行っていた。そのようなことをしなくてよくなっただけで、十分に凄いことである。それに、リアル店舗は到底勝てないというのは、自明のことだと思えるのである。

しかし、それで終わりでは、リアル店舗にはあまりにも救いがないし、私が今回考えを求められているのは、リアル店舗側からの考えなので、リアル店舗は何を持って、そういったネットショップに対抗するのか?を考えなくてはならない。

ネットショップとリアル店舗の間には天と地との差があると思うが、その中でも、大きな差異をいくつか考えてみる。

1)接客が可能である。
2)実物を手に取ることができる。
3)空間をデザインできる。
4)時間を独占することができる。

この辺りがわかりやすく優位な点であると言えるのではないか。

1)接客が可能というのは大変なアドバンテージである。お客様が店舗に来るということはそれすなわちその商品に対して、興味を持っている見込み客を呼び込むことができるということに他ならない。ネットでは何かのついでにバナーをクリックするなどして、ちらちらと目を走らせただけの人も訪れるが、現実の店舗に足を運ぶ人々は、大変に期待値の高いお客様であるということがいえる。それは立ち寄りの来客であっても、その店舗の取り扱い商品に興味があるからである。

2)ネットでは情報や写真を出すことはできても、実物を手に取ることは出来ない。しかし、リアル店舗ではそこにディスプレイすることで手に取ることが出来る。手触りというのは感覚に訴える大きな手段であり、男女における関係性と一緒。スキンシップが多いほうがより親密になるのは自明のことではないかと思うのだ。

3)空間のデザインはその商材に対しての集中力を高めることが出来る。そして、より魅力的なものとして装わせることが出来る。乱雑に積まれた商品と配置に注意された商品と同じ商品でも全く別物に見えるという経験は多いのではないか。それは商品の値段に限らずという事でもあるし、あるいは、高価な品物がそのパッケージにまで気を使っているということを十分に理解した売り手はそのパッケージをさらに拡大して、売り場にも気を使うことで大きな相乗効果があるに違いない。

4)実際に、その場に足を踏み入れたお客様の時間はネットで商品を探す人々と違い、その時間をそのために使ってくれているという事でもある。ネットで商品を探す場合、自宅で探す以外にも、移動中にモバイルでとか、何かの合間にとか、様々な選択肢があり、その時間はその商材のために取られた時間ではなかったりする。しかし、リアル店舗に足を踏み入れた人たちはそのことだけに時間を使っている。時間は誰にも均等ではあるが、大変に貴重な資源であり、時間を掛けることで愛着まで湧いてくる。人というのはそういう部分があるように思う。

これらをすべて取りまとめていくときに大きな意味を成してくることが「関係性」であって、これらの関係性はネットを使った関係性よりも一歩進んだ関係性構築が可能な土壌であると言ってよい。無論のこと、合わせて、ネットを利用した関係性構築や関係性維持のための努力は怠るべきではない。これらは足し算ではなく、掛け算の効果が期待できるということである。

同じ商品を扱っているネットショップが二軒。商品と値段が同じ。片方のショップには多くのコメントが寄せられ、そのコメントにも丁寧に店員が返答している。もう片方にはそういった対応がなされていない。どちらを選ぶか?それは不特定多数の人々が評価している前者を選ぶ人が多いのではないか。そして、その中に、実店舗があるという記載があり、その実店舗が遠くなければ、実店舗で購入するという選択をするかもしれない。そういった繋がりを作り続けていくことで、広がりが出るという事である。
逆に、実店舗には置ききれない商品でも、倉庫をもって、ネットショップを経営しているのならば、実店舗内において、ネットショップへの誘導も可能だろうし、次の来店時に所望される商品の実物を店頭に用意するというような対応も可能になる。より濃密な関係が生まれていく。

濃密な関係性は最後には好意に代わっていくように思う。好意に変わらないのに、関係性を維持するほど人間は暇ではない。次もまた、そのお店を使おう。そう考えるのは自明なのではないか。

そんなことを説明することが何度か続いた。経験の浅い私の考えなので、それが正しいかどうかは分からないし、これからも考えていかなくてはならない課題になるように思える。それだけ、様々な面で、amazonやら、楽天やらのネットショップとの敷居が下がっているという事だろう。この関連についての話題は今年の前半に考えていくことになりそうだ。

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新年を迎えて

2014年になって、すでに一週間ほどが経った。今更ながら、あけましておめでとうございます。そして、今年もお願いいたします。

我が家は12月のクリスマスが夫婦の結婚記念日となっており、そこから、大晦日、正月とイベント続きになるので、年末年始についてはそこそこの忙しさがある。

年始には祖父母と母のところへ顔を出し、少々、話などもする。遠方にいるわけでもないので、会おうと思えばいつでも行けるのだが、なかなか、そうしないのはお互いがお互いの家に住んで、暮らしを営んでいるということなので、それをお互いに阻害しない。または、お互いに干渉しすぎないという方針があるからだと思っている。不干渉ではなくて、過干渉を避けるということである。人間関係にも通じることではないかと思うのである。

2014年がどのような年になるか。それは、簡単に予測できるようなことではないが、今よりもそれほど景気が良いわけでもないだろうし、増税や社会不安などもあって、充実した一年とはならないのではないかと思えるが、そんな生きづらい中でも、生きていかなくてはならない。暗いと考えるのは簡単で、見通しが暗いからと言って、それをただ受け止めるだけでは先がない。

2014年は先に進捗する日々でありたい。2013年の自分より先に進める自分でありたい。それがおそらくは家族のためにもなるに違いないと思っている。

そういえば、家の近所の神社に初詣に行った。初詣では家族の健康と幸せ、そして、縁ある人々のますますの繁栄を祈ってみた。関わる誰しもが進捗する一年になればよいなと願っております。

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ダイエットブーム到来

ダイエットブームが到来した。主に家人に。私も体調不良も重なって居ることでもあるし、三十路を過ぎてすっかり贅肉の塊になった自分を久しぶりに叩いて(鍛えて)みようかというような気持ちになった。子供の頃は普通体型であった。それが、小学校、中学校とかなりの肥満状態が続き、高校入学後に幾つかの事情で、強制的なダイエットを迎えることになった。

その原因の一つに、靭帯断裂による入院が挙げられる。長閑な入院生活。今であれば、情報デバイスもあり、多くの時間を楽しめると思うのだが、当時はそんなことは出来なかったので、テレビを観るぐらいしか楽しみがなかったのだが、残念なことに、その病院では二人部屋に入院していたにも関わらず、テレビは有料であった。

その金銭を母親はくれたが、それをムダにすることも出来まいと思って、昼の時間と夕方の時間と夜の時間と大体2時間程度の時間をテレビを観ることにし、残りの時間は活字を読むことに費やした。本を読むことは悪いことではないという考えが、私の家族にはあるようで、本を読んでいることに対して、とやかく言われた覚えが無い。むしろ、それは賞賛されるべき行為とされていた(今もその傾向は有るし、私のその傾向を引き継いでいると言って良い)。

その頃に読んだ本は割りとよく覚えていて、長編の歴史物から、その当時のデビュー作家から、評判になっていたエッセイまでどちらかと言えば、横断的に読んだように思う。今は一冊読むとその作家の著作を読み進む縦断的な読書を行うことが多いように思うので、今よりは切り替えが巧かったのかもしれないし、あるいは、本の内容に入るのが早かったということかも知れぬ。例えば、ある作家のエッセイに別の作家の著作を紹介されていたとすれば、その紹介されていた本を読んでみるというような読書をした。

入院していた病院は実家からそれほど離れていない整形外科であったが、そこそこに名前のある病院であったらしく、手術した医師もまた、名のある人であったそうで、予後もよろしく、格別の問題はなかったが、設備面と食事面は全く期待できないというようなことだったが、足を怪我しているということでもあって、自分で何処かまで出掛けるにも一苦労であるので、余計な食事は取らない。そして、管理された食事が定時に出される。ダイエットの初歩の初歩と言って良い生活を送ることで、急激な減量をした。

退院後にも、その食生活や生活習慣が取れなかったせいか、急激に減量をすることになった。その後、社会人となり、体を壊したり、わりあいと厳しい生活を送っていく中で、痩せたというか、やつれたのだが、実家に帰り、更に、家人と世帯を持ったことによった安定したものか、そこそこに膨らんでしまった自分がいて、そろそろ、改めようかと思っていた所に、家人がダイエットを開始したので、相乗りしょうかという塩梅である。

私はついでなので、好物でもある豆腐を多めに食べる生活を行ってみようということで、主に豆腐を食べている。それ以外を一切口にしないということではないが、とりあえず、豆腐主体とした。

元々、豆腐類が好物であって、私にとっては、焼いた厚揚げ、おでんの厚揚げなど大御馳走であって、それが出ていれば文句を言うわけでもない。安いことだと思わないでもないが、そういうことになった。飽きるまで試してみることにしよう。それで、体が健康になれば何よりのことではある。

せっかくなので、昼食も試してみようということを思いつき、家人がお弁当を作る手間も省けることでもあるので、会社でも食べられるようなメニューということで、豆腐茶漬けにハマっている。豆腐をレンチンして、御茶漬海苔を掛けて、お茶を掛けただけ。誠に、簡単で料理と言えるようなものではないかも知れないが、存外と腹持ちも悪くないので、オススメしたい。コツとしてはお茶漬け海苔に醤油か、塩を少しだけ加えて、お茶を多めに掛けることである。お茶は日本茶でも烏龍茶でも良い。熱々を掛ければ良い。ネギでも散らせばご馳走風にもなる。

こうして、12月も半ばを迎え、2013年の暮れの合図がこのような流行になるとはつゆ知らず、今年もあと2週間ほどである。新たな年を迎える準備が始まっている。終わり良ければにならって、今年を締めくくり、良い年であったと振り返りたいし、また、来年が良い年になるための準備もして行きたいのである。

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片田舎の現場と中年の気持ち(以下略)

片田舎の現場と中年の気持ち

-かくも身勝手なオッサンに足を踏み入れた私の現場への未練のようなものを断ち切れない気持ちの根源は青臭いかも知れない理想論のような思い込みに影響されたようなやや気恥ずかしくも戯言のようなもの-

忍者ブログさんの仕様でタイトルが書けなかったので記事内に書いときました。いや、本当に長いタイトルって難しいですね(白目

<-- 以下、本文1-->

大いなるバトンが!こんな片田舎のオッサンの元に渡って来るのであります。バトンは海を渡り、九州へやってきました…!

この投稿は、DevLOVE Advent Calendar 2013 「現場」の17日目になります。16日目のよしむらーさんからバトンをいただきました。なんとか次にリレーを!というわけで、ここも「私の現場」ということになりますでしょうか。これまで読ませていただいたところで、皆さんの考えがよく分かる名文ばかり。私の駄文が目立って仕方ないんじゃないかと思ってガクブルしております。調子に乗って申し訳ないと先に謝る必要があるのでは無いかと思うほど、読み手の方には、それほどご縁の無いお話をさせていただく事になりそうです。

<--本文1終わり-->

<--以下駄文-->

というわけで、自己紹介。ふぃるめんて(@filemente)でございます。ほとんどの方が知らないことでありましょう。偶然、ブログを書く人を求めていた某トップバッターちゃちゃき(@chachaki)氏にコメントしたところが、大丈夫ですのでというところで、思い切ってみようかと思った次第。三倍頑張る(赤くなれるものならなりたいぐらい)予定ですが、駄文・乱文には平にご容赦下さいませ。

地方住みの上に、勉強会にほとんど出ない。何かにコミットするようなこともほぼ無い。九州は福岡の片田舎で割と狭い業種(web業界やIT業界には全く関係の無い業種です)の企業グループでシステム周りの面倒を見ている部署を統括しており、あとは、マイナー業界向けの半パッケージソフトの開発責任者でもあります。以前は、フリーランス半分、派遣半分というようなことで、色々な案件に関わる為に短期間で転居をしていました。現在、所属する企業の社則(会社の許可が無い場合に於いて、所属を明らかにした講演や情報発信の一切は許可を得ることというルールがあるので)にて、皆様のようにお名前は出せませんが、少なくとも、ここまでのブログをお書きの皆様のように華々しくも無ければ、聞けば誰でも解るような企業に居るわけでも無ければ、何かの勉強会に大きな貢献をしているわけでも無いわけです。

そんな私が、何故、今回の「現場」について手を上げたかというと、誰もが、在京の「聴けば解る」会社で開発をしているわけでも無ければ、何かの勉強会やコミュニティに参加しているわけでは無いですが、私にとっての現場はそんな場所にもありますということです。そして、私にとっての現場(現場人)とは何だろう?と若いころから茫洋と持っていた抽象的なイメージをしっかりと考えて、具体的なイメージや言葉として考えたいと思ったことがキッカケでした(特にそういう状況がダメだとか、嫌だとか、そういうことではなくて、世にある開発現場の10の内、7~8はそういう人々がそういった場所で作業しているのだし、それがほとんどの現場なのだという基本的な考えを持っています。良悪や好悪のことを言っているわけではありませし、それが現実であるということだと考えています)。では、少々お付き合い下さい。

現場とはプロとして責任を持って課題に向かう人々の集う場所(であってほしい)。

大小。様々な開発案件があります。それは大規模な開発案件もあるでしょうけど、小規模な開発案件から、以前から運用しているシステムの一部機能追加、機能変更など、様々な出来事があるわけです。どこかのビジネス系サイトから取材が来るような華々しい実績のある案件の方が数は圧倒的に少ないのではないかとも思います。実際には「こんなクソな条件で仕事持ってきやがって!」と営業に悪態をつきながら、開発や運用側の担当者が関わる時間の長短も有りながら、それぞれに「プロ」として責任を持って仕事をしているのが「現場」だと思うのです。それが例えば、一行の追加で終わるような作業であったとしても、仕様変更の内容として、それほど重要とは思えないことであっても、その作業で発生した変化が利用者にとっては重大なことかもしれないし、お客様にとっては、自分が把握しきれていない事象に関わっているかもしれず…。ただ、共通して言えることは、誰もがその理由は何にせよ。責任を持って、課題に向かっているというのが現場です。炎上している案件を抱えた火事現場(デスマ)であっても、責任を持って課題に向かっている人々が集まっている場所が現場であって、そのような責任の所在がハッキリしない場所は現場ではないと思っています。そういう場所は単なる作業場だろうと。

現場人とは有名無名。中央地方に関わらず。今いる現場で全力である人々のこと。

自分が思い切れない。やりたいことが出来ないという悩みを若手から聞くことが増えました(私も若手のつもりがいつの間にか最年長に近い方になってしまいました)。そして、有名無名、大小と様々な企業が集まる中央と比べて、地方のほうがこの悩みは顕著に現れるのだと思います(同業他社への転職にしても、自分が憧れるサービスを提供する会社にしても、それが身近な場所に本拠を構えていることが少ないからです。こればかりはどれだけ頑張っても地の利といえるかもしれません)。それらの原因を「状況」に求める人も少なくありません。つまり、「ここに居るから私はダメなのだ」というような発想です。しかし、その状況を変えるために、転職した結果、それが良化したというケースは稀有だというのが、複数の都市を移動しながら「現場」に入ってきた感想ではあります。状況を変えて、生き返る人の多くはどのような現場でも全力です。そして、そんな全力な人々をほっておくような現場はいつか淘汰されるし、全力な人々が盛り立てられて、新たなステージに向かうステップボードも、また、その新たなステージも現場が持っている魅力だと思うのです。

つまり、プロが集まり、責任を持って、全力で作業している場所が現場。技術者にとって、成長もチャンスも次へのステップも大事なことはみんな現場に転がっている(に違いないと信じたい)。

私も三十路半ばになり、アラフォーと相成りました。昔から都市伝説のように語られた「35歳定年説」を自らが迎えた時、なるほど、こういうことになるのか?とその都市伝説の端緒を見付けたような気がします。「あ、これは、管理職目指す人も居るよね?」と素直に受け取れました。当たり前に新陳代謝している会社だと自分よりも若い馬力のある人が増えます。そして、自分がメインでやってきた技術よりも新しい技術が増えてきます。それを頭に入れる作業が前よりも時間がかかるようです。年齢的に周りの若手が遠慮をするようにもなります。他の業種と比べて、自らを「老害」と認める時が近いでしょうし、若手から疎まれる時も早いのだろうと思います。職人技を発揮するチャンスは職人系の職業と比して、チャンスが少ないという事でもあると感じています(今のように余裕のあるリソースを使う時にそれでも必要以上に詰めていく作業は昔と比べたら求められていませんよね)。それでも、現場を離れたくない。そう思って、それを実現できるのは本当に一部のデキる人だけなんでしょう。

私も現場を離れて管理側へと割と早い段階で言われていました、自らの力不足も顕著だっただろうし、私自身の努力不足かも知れないし、あるいは、管理側に移った方がいいと廻りが判断したのかもしれないし…。色々な要素が噛み合って、そういう話が早い段階から出ていただろうということがあります。現状、以前と比べたら、本当にソースも書かずに、人と会うことやExcelで文書を作る(この事がそもそもクソな作業だと思うんですが)ことがメインの仕事になりつつあって、現場を離れることの寂しさを感じないでもありません。体力も集中力も加齢と共に落ちてきた自分を感じるけれど、それでも「自分の理想の現場に自分の理想の現場人として在りたい」し、少しでもそこに居たいという思いで、若手に「ダメっすよ」と怒られながらも、コミットし続けて居るところです(そろそろ管理者も譲った方がいいのかしらん)。こんな困ったオッサンを相手してくれるという意味では、周りに恵まれているなと思いながら、若いころから持っていたイメージを確実な言語化出来ないなら、なんとか体現をしたいと思うのでした。

<--駄文終わり-->

<--本文2開始-->

「理想を高く持っていて、しかし、情熱の「赤い炎と青い炎」の2つ(2つ以上かもしれない)を兼ね備えつつ、スッと座相を正し(猫背の人も多いですが)、雪の日も雨の日も風の日も、ただ黙々とキーボードに向かい、旨くないかもしれないコーヒーをすすりながら(日本茶や紅茶、あるいはコーラかも知れないし、ドクペやレッドブルやモンスターエナジーかも知れない)、ときには悪態をつき、ときには叱咤し、ときには激励されながら、顧客の要件定義に疑問符を感じ、新規オープンするサービスがいつまでもβが取れない状況であっても、仲間と呼べる同僚たちと一緒に誰かが怠惰になる為の「何か」を作り続けるそんな人に私はなりたい」


というわけで、誰もが何処かの現場で必要とされ、そして、そんな皆様の仕事が評価され、誰もにとっての理想に近づき、正当な評価を受けられることを願って、日本語編集用のエディタ(Terapad)を閉じます。

次の書き手はもとはしさん。寡聞にもというか、勉強会に顔を出さない私は存じあげなくて、お名前をググった所、色々な所にお名前が!どんなお話が聴けますことか愉しみにしております。

<--本文2終わり-->

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相方(合方)という言葉

相方という呼び方に違和感がある。というと、「何故?」と言われることも少なく無いが、こればかりは何とも説明しようのない感情がわき上がってくる。

相方とか、合方とか、まあ、書き方は良い。若い男女が「相方」という言葉を使う、その端緒が何処にあるかは解らぬ。けれども、彼氏彼女であるし、結婚すれば、夫妻であるわけで、その呼び方は立場で変わっていくとは思うけれども、その中に「相方」という呼び方は私の中では含まれないというだけなのかも知れない。それがしっくりと来る関係の存在を全否定するわけでは無い。長い年月や様々の出来事を経た結果、そのような関係になっている人の存在がある事は十分に解った上で、このような事を感じている。また、そのような関係を持っている人に十分な納得もする。そういう方をごく少数知っているが、そうで無い人々が会話で使う「相方」には本当に微妙な感情が沸く。

相方(合方)とは、本来は日本舞踊などの用語だったように記憶している。二人以上なら、準主役の人を合方といい、一人の場合は三味線奏者などが合方に相当する。つまり、一つの物事を作り上げていく中で、お互いが不可分な組み合わせであるということである。そのような関係を「出会ったばかり」で作り上げられるような事があるのなら、それは幸せな事だろうとは思うが、そんなことを言っているカップルの多くが短い時間にくっつきは離れて、相方を変えていく態を観ることが多い。それが悪いということではなくて、その事と、相方という言葉がそぐわないのではないか?ということである。

ちなみに、私は細君の敬称を家人として固定している。私の妻であって母ではないし、私は父としてよりも家人の夫として優先されるべきだと思っている。責務という言葉が合うかどうかは不明だが、子育てが全てに優先されるとも思って居ない(無責任に振る舞うという意味では無い)。物がわかるようになり、人として生きてけるようになったとき、子は個の部分を強くして、独立していくのだろうと考えるからに他ならない。夫婦は他人同士が一緒に好きこのんで住み暮らしている。子供は切っても切れない血縁である。当然どちらにも等分に心を砕くのだけれど、他人同士である以上、家人に心を砕く方が優先されるのは当たり前のことでは無いかと思うのだ。

このような事を書いていると「子育ての手を抜くのか!」とか、「子供最優先」とか、そういう輩が沸いてくるが、何もしなくても何でも子供優先になって行く世の中で、子供を優先する気持ちばかりが先に立って、夫婦がお互いの事を顧みないような事では、その家庭が上手く行くわけも無いと思っている。

このような事に考えが及ぶような頃合いであるが故に、余計に、「相方」なる言葉の遣い様が安直になっているのが、何ともむずむずとして痒い。

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プロフィール

HN:
filemente
性別:
男性
職業:
シス管(半分引退)/パチプロ(廃業)/総務経理系の管理部門(現職)
自己紹介:
田舎で一人、中小企業で、システム管理をしているはずが、いくつかの僥倖もあって、ちょっとポジションが変わったことだけ付け加えておく。格別の特徴は無いが、体型は完全なメタボリック体型である。近頃、とみに体重が増えた。また、歳を重ねる毎にアレルゲンが増してもいる。

学生時代から、バイトも含めて、随分と様々の職種をこなしてきたが、偶然にもシステム屋をしている。向き不向きでいうとそれほど向いているとは思わないが、それでも食い扶持を稼ぐためにはしかたがない話なのかも知れない。

結婚をした経験があり、独り身であったが、こんなメタボなバツありのところに遠いところからわざわざ嫁に来てくれる奇特な女性があった。よって、独り身では無くなった。二人身である。二人分の食い扶持のために働き続ける所存。止まらぬ汽車はまだまだ進むのである。

更に、娘まで授かってしまったので三人で暮らしている。家族となった。元来子供好きだったが、半ば諦めていたのでこれもまた僥倖である。家人には頭が上がらない。

というところで、更に、転職と転居を思い切ってしまったので、同じ片田舎であっても、南から北へ移動した。それは良いことかどうかはこれから答えが出るのではないか。

あと、システム管理者以外の業務が主なので「元」システム管理者になった模様である。

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