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片田舎で働く元システム管理者の日記 ver.2

日常の由無し事を書きつくっています。

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総選挙の終了と年の瀬と

16日に総選挙であった。当日、翌日には見えないことも中一日で見えるようになったりする。世の中の動きは考えても考えても、先があるとは思えないような事で進んでいるような「ぼんやりとした不安」みたいなモノが蔓延していて、残虐なニュースが続き、厭世感までが漂っているような気がする。そんな世の中を変えるきっかけになれば良いと思わんでも無いが、そんなことを考えられるのも、日々の糧を得られているからというだけの理由で、日々の糧すら無い人間にはそんなことすら、考えられないだろう。全てが決め手にかけていた。政党は増加し、候補者は右往左往。居住地が有力議員の地盤であっても安心は出来なかった。その程度には「民主党」という与党が行った国政は我々に対して「もういい」と言いたくなるような「民主党」という党とその党に関わる人々に対しての嫌悪感が充満していた。身近な所では、祖父母が初の棄権を選択したそうである。祖父母に聴いたところ、行かなかったことはないと行っていたので、初めてなんだろうと思う。祖父の体調が悪いこともあったが、齢80を過ぎた政治に特別の関心が無い人間にとって、今回の様な状況で投票先を選ぶのは困難だったのではないかと思う。そのような事で、投票率が下がったということである。話題性と投票率はある程度の相関関係は見込めるように思うのだが、今回は話題性(この場合は期待されるべき話題性ではなく、単なる賑やかしに近い)には関係なかった。その結果というわけでは有るまいが、新党に動いた候補者は軒並み、小選挙区で落選する事になった。まあ良い。とりあえず、総選挙というイベントが終わり、いよいよ年末へと向かっているというところである。私自身にはいくつかの関心事はあったもののそういった関心事は集中力をそこに集めるには、盛り上がりに欠けるイベントではあった。決して、上向きそうも無い総選挙というイベントでも、為替と株の値動きがあったことだけは良いことであったと言えなくも無いのではないかと思う。

年の瀬である。もう、今年も二週間を切ってしまった。私はこの12月の末頃には、大抵、何か大きな見落としが無いか?という確認をする事にしており、その確認で何も見付からなくても、翌年の一日目にやることを考えるようにしている。仕事的な部分は決めるだけ決めて、支度をしておく。プライベートな部分については、例えば、読みたい本があれば、その本を読むというようなことである。持ち越さない方が良い仕事も確かにある。しかし、それは自分の中で塩梅する。誰もが自分の仕事をオープンにして居るとは限らないし、その仕事内容が全てに意味が通じるわけでも無い。「A1+A2+A3+A4+A5 = A」というような事もある。専門性が高い現場では当然起こることである。長く続ければ、お互いの事は解ってくるが、プロフェッショナル同士の不可分の部分にまでは踏み込まないし、踏み込めない。または、有資格者しか出来ない作業も厳密にはあるわけで、そのような事を考えていたら、そう簡単にはいかないとは思うのである。誰でも出来る仕事ばかりでは無い。そうそう簡単な仕事でも無い。そういう中で、自分の年始初日の行動を決めておくのは悪いことではない。是非、年内最終出勤日の片付けを下デスクの真ん中に自分へのメモを残しての退勤をしてみると良いと思う。休みボケの頭にはちょうど良いキッカケになるのだ。

我が家の年内の大きなイベントはクリスマス(12月25日で、12月24日のイブではない)の結婚記念日。恒例の外食の予定。さて、「何処で何を食べますか?」と言われても「まだ何も考えてない」というのが正直なところ。「まだ、考えていないなんて…」と言われそうだが、私と家人は予約できても予約しないと思う(どうしても予約しないと駄目なお店に行くという以外)。そういう在り方が夫婦としてのスタイルとして在る。

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子供が居る生活について

子供が居る生活に私はそれほど耐性がある方では無いと思う。というのは、私は親類が少ない家で育った(父親が実家と縁遠く、早くに亡くなったし、母親は二人兄弟であり、祖父母の親類にも母の世代から下の親類とはあまり付き合いが無い)からと言うこともあろうか、弟とは3歳ほど離れており、それよりも下の子供と一緒に遊ぶということがあまりなかったのである。

少しばかり、昔の話をすると、過去に同居していた相手に子供があって、そのうちの子供と少しばかりの「親子ごっこ」のような事になったことはあったが、既に、長じていたのでいわゆる幼子との生活は娘が産まれて以来の事と言えるだろう。娘が産まれて以来、蒙が啓かれるが如くに見えなかったことが見えるようにはなった。例えば、街を歩く子供連れの気持ちがわかるようにもなったし、以前よりも敏感に妊婦かどうか?についての気配りを惜しまないようになった。これは家族を持って、子供を持っている男性ならば、意識することと言って良い。そうで無くてはおかしい。自分に子供が出来るまではその意識は相当に意識して初めて出来る事ではあったが、今ではそれは自然な無意識の行動とも言うべき、織り込み済みの行動の一つであって、自分の変化を感じ取る事が出来るのである。

ふと、いつもモニターに出しているTwitterクライアントからこのような記事が流れて来た。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20121119-00000002-voice-pol

この記事については読んでもらうのが良い。自分自身の良心とか、社会的な問題を考えずにただ読んで感想を述べれば、あるいは、「子供がうるさいのは耐えられないよ。確かに」という結論に達するかも知れぬとも思う。特に間違いとは思わない。時間帯やその時の状況によっては我が子の泣き声ですら辛いこともある。そして、公共の場に子供連れで出る事に対しても、あまり、心地よいものでは無い。周囲への迷惑が掛かっているという意識が強くなるからに他ならない。そのような事態に陥っているときに、当事者である親の気持ちは「大変申し訳ない」「迷惑を掛けている」という二点に収斂されている。本当に辛いのである。申し訳ない気持ちになるのである。その事を考えずにモノを述べるというのはなかなか簡単なことではない。無論、親が目を離して、子供が走り回っておるなどという事態になっておれば、大問題と言わざるを得ない。そのようなときには監督者である親が責めを受けるのは当たり前であり、非難はされて当然のことである。しかし、年端もいかぬ子供を泣き止ませるというのはなかなか大変な事で、両親の間であっても機嫌を損ねれば泣くし、大声を上げたりする。彼らは一個の人間であり、自我はあっても、集団で行動するということに意識など無い。そのような社会性が身につくのはもっとずっと後のことであろう。では、そのような社会性が無い子供を公共の場に連れてくるべきでは無いという論は逆に暴論で有り、「公共」交通機関であるのだから、あくまで、公平に対応されなければならないはず(身長、体重などの制限があるとかそういうものは別である)なのだから、その時にそれに文句を言うというのは、逆にその事が社会性の無さではないのかと思う。

現在、少子化と言われる。子供を育てる社会に対して、地方公共団体も含めて、様々な取り組みがされており、さらに、その取り組みに色々と税金投入もされている中で、それらを許容する端緒は関わり合う個人の心持ちに影響されると思っている。国家(公)はあくまで個人の集合体であって、あくまで、個人(個)が尊重されるべきであるし、その総意を表したモノが国家(公)の方向性であると考えれば、その尊重されるべき個人(個)が向いた方向が国家(公)と同じ方向を向いている方が良いし、その方が未来があると考えたい。このままでは成熟した社会を通り越して、単なる老人が徘徊する廃墟になるのでは無いかという気持ちすら生まれてくる。いつかはバランスが取れる時が来るのかも知れないが、それは我々が考えるよりもずっと先の話だろうし、その方向でバランスが取れたとして、それが幸せとも思えないのである。沢山の子供達が楽しく生活できている活力ある国であると良いなとは誰もが思っていると思いたい。

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立冬

『暦便覧』では、「冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也」ということで、今日から、立春の前日までが冬ということになる。冬は嫌いな季節では無い。私は汗をかくことがあまり好きでは無い。スポーツをしたでも無い限りにおいては汗はかきたくない。しかし、夏では何もしていないのにじんわりと汗をかくようなことはままある。それが苦手なのである。元々、体温が低いことでもあって外気温が悪いと途端に体調を崩す。アクティブになると言うことは無いのである。

娘も先だって、何やらのウイルス性の風邪を保育園で貰ってきており、4日ほど大変な高熱を出していた。40℃近い熱が出ても、ぐったりすることも無く、食欲が進まない程度で無事に快癒してくれた。体が丈夫である事は私どもの夫婦にとっては大変に有り難い事である。これで病弱だったとしても娘の可愛さには何の変わりも無いが、親孝行という意味ではまずは第一の親孝行であると言える。ありがたいなといつも思っている。

11月の頭になると思い出す事があるのだ。それはまだ、私が福岡にUターンする前の話。その頃は私は名古屋に居た。長期の出張扱いで名古屋に向かっていた自分に対して「長期出張では無く、出向扱いにするので、そちらの案件にズッポリ頼む」と告げられた頃の話である。いくつかの案件が平行して動いていた。期限が、最も近づいている案件から順番に、割と難易度の高い案件の火消しを引き受けることになった。難易度の高さとは技術力の問題だけを指さない。技術力だけで言えば、私などよりも余程に優秀な人々が既に泥沼のような現場で寝泊まりをしながらの作業に追われていた。追記を延々と繰り返す仕様書と終わりの見えない指示書。朝令暮改の如く、前日にくみ上げたロジックを否定されるような泥縄に誰もが疲れ切っていた。そこに突然突っ込まれた。知っている人間は二人しか居なかった。

初日、自分の席には型落ちのノートPC(今でも忘れないIBMのThinkPad)が一台置かれていて、そのカリカリと音を立てるHDDが載った一台のPC以外には何も無かった。ネットワーク用のIDとPASSも渡されず、リーダーとして紹介された人と話をして、IDとPASSを発行してもらって席に着いた。まずは、少々のアレンジを加えた自分なりのエディタなどのインストールをおこなって、夕方のMTGに出席した。そのMTGでは資料の紙も配られたが、既に、期限まで二週間しかなかったが、BTSのチケットは大変な量が未着手のままであり猖獗を極めていた。そんな短いMTGの間ですら、目を血走らせ、顔に脂が浮き、無精髭が生えた人も居れば、目を開けておく事すら辛いといった状況の人も居て、なるほど、この現場は沈没する船の上なのだということを改めて思った。

そこから、先についてはあまり記憶に無い。というか、怒濤のような日々だった記憶が断片的にはある。人生でもあまり類を見ないほど入浴の機会が無かった。自分自身の垢が堆積し、自分で頭をかくと垢が溜まっていた。旨くも無いコンビニ弁当を詰め込むだけの食事で慢性的にビタミン不足だったせいか、爪が脆くなり、薄く禿げるように割れた。何人かの同僚が一時帰宅の度に旅に出たり、行方不明になったり、ドクターストップで病院行きになったり。そんな現場であったことが記憶に残っている。

近頃もそんな現場があるのかなと思えば、今の安穏とした日々(当時に比べれば)に感謝もしている。何より、家人を迎え、娘が産まれたということもあって、家に帰る事に愉しみがある。このような心持ちはついぞ無かった。正直、私のお家大好きっぷりには家人も呆れているんじゃ無いか?とも思う。年末まで走り続ける体力の為にも今月半ばまでは無理せずに行こうと考えている次第。ますます、申し訳ない気持ちになる。そんな我が家がある事に家人に感謝している。

季節の変わり目。ご自愛下さい。忘年会もそろそろ始まっている。今年は出来れば、2つ、3つ程度で。お仕事に関係ない方面で心を落ち着けたいのだけれど。

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誕生日を迎えた事について

ようやっと、折返しに来たように思った。30代ど真ん中である。そういえば、親父が物故したのは40代半ばだった。あと、10年ぐらいでその年齢に達し、家人が今の私の歳ぐらいになって、娘は小学校高学年を迎えて、何か考えているに違いない。

様々の家庭の事情と不幸も起こりえるが、それも私が歳を取ったということの裏返しだろう。私は歳を取る事が怖かったというのは、私自身の変化に起因することでは無くて、私の周囲の人々が私が歳を経る毎に衰えていく事が嫌だったのだ。祖父母も、両親も、兄弟も、従兄弟も、そして、仲の良い親友達も、何処までも生きて欲しいと願っていた。私たちの方が先に死ぬのだという当たり前の事をいう大人達の言うことに抗いたかった。パイロットになりたいと子供の頃思っていた記憶があるが、その前は医師になりたいと言っていたそうである。あらゆる病や怪我は医師が魔法のように治療が出来て、長く永く、私の周囲の人々の命を保てるのだと私は信じていたようだ。無論、今はそのような事を考えては居ないし、死に向き合う機会もこれまでに何度かあったので、構えを作ることが出来ているようである。

構えをつくる事はどのような物事にも当てはまる重要な行動であるというのが、ここに至って思い付く事である。若い頃はガムシャラであった。用意が無くても、気力や体力で乗り切る事だってたくさんあった。しかし、実際にはそれは無理な事でそう簡単な話では無い。その体力と気力の衰えは割と早い段階で自覚するもので、20代前半と30代では全く別物だった。結果として、経験を基にした「構え」を取るようになるし、準備をするようになるのである。その準備の分だけ、気力と体力を使わずに済むのだ。そして、バランスが取れれば、若者を凌駕することが出来る。その事に気付けた事は大きな収穫だったと言ってよい。正直、ここ数年の体力や気力の衰えで、もうすっかり、ネガティブな気持ちが心を支配していたということでもある。

家人を迎え、娘が誕生し、そして、家族としての貌を作る二年ほどだった。そういえば、節目となる歳にその事に取りかかれていた事は僥倖であると言わざるを得ない。今もまだ各種のSNSでのお祝いやメールでのお祝いなど、大量に押し寄せているが、全ての気持ちに感謝し、そして、さらに一年一年と積み重ねていくものがある事をねがってやまない。馬齢を重ねるだけではつまらない。それは年輪のように自分の深みとなる歳の取り方を学んでいきたい。巧く歳を重ねて、3年後、5年後には今の自分を振り返り、「ああ、なるほど」と得心のいく自分でありたい。難しい事だが、それに挑戦する年齢になったということだろう。

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里帰り(家人)について

里帰りに行っていた。そう、家人の妹(つまり、私の義妹)が結婚式を迎える由。お相手の男性も私も会ったことがあった。なかなか美男美女の二人である悪い結婚式にはなるまいと思うのである。ただ、群馬県が遠いというだけに過ぎない。

福岡県に居ると、群馬に帰るのは札幌に行くよりも大変な作業になる。というのは、空港からの距離に依存している。空港からが遠いとこんなにも大変なのか?と福岡で育った上にそれからもそれほど不便な場所で暮らしたことが無いので理解出来なかったということである。群馬はネットでいわれるような「グンマー」というような事でも、秘境でも無い。実際に行けば解るがちょっとした東京郊外ぐらいの街であり、自家用車さえあれば、何一つ不便は無い街であると言って良い。

まあ、それは良い。今回はまずは関東入りを成田空港とした。新規参入のLCCを使ってみたかったという私のわがままと予算の関係が合致した結果の選択である。成田空港には仕事の関係で少々ではあるが、出入りをしていた事があったので、それほど違和感は無かったが、羽田と比べれば不便だなという気持ちにはなる。今回はレンタカーで、一路、横浜へ向かい、家人のネイルを仕上げていただき、終わった後に東京で肉会を開いた。多くの方々が集まり、それは楽しい宴席であった。宴席終了後に群馬入りし、翌日の披露宴に参加。その後は帰宅し、翌日には上諏訪へと義祖母の喜寿の祝いで旅行に出掛け、さらに、一泊後、翌日に長野県から高速道路を成田へ。天気も悪くなく、爽快なドライブであった。

あまり、内容を書かずに列挙するとそうでも無いが、よく考えれば飛行機無しでも移動距離が500キロを超えて、飛行機分も入れれば2000キロぐらい移動している計算になる。良くもこのような弾丸ツアーにしたものだと思わないでも無いが、私と家人にとってはそのようなタイミングでも無ければ会えない人々との邂逅があり、その邂逅によって、エネルギーを貰い、そして、日々の活力にしている面が大きく、愉しい日々が無くては、到底先には進めず、私たちの暮らしも前を向かないのである。

今回もお会いできた方々にはお礼を申し上げるより他ない。皆様のおかげで。というと、卑屈だと言う人も居るが「お陰様で」という気持ちは卑屈なものではなく、高貴な気持ちであり、その心無くしては先には進めないぐらい重要な素養の一つと言って良い。そのような心持ちを持てるのも、また、今回、お会いできた皆様と家人の家族の方々のお陰だろうと思っている。ともかく、忙しく、疲労もしたが、良い充電になった。今年もあと三ヶ月。踏ん張り温泉という言葉がいよいよという所にはなる。

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プロフィール

HN:
filemente
性別:
男性
職業:
シス管(半分引退)/パチプロ(廃業)/総務経理系の管理部門(現職)
自己紹介:
田舎で一人、中小企業で、システム管理をしているはずが、いくつかの僥倖もあって、ちょっとポジションが変わったことだけ付け加えておく。格別の特徴は無いが、体型は完全なメタボリック体型である。近頃、とみに体重が増えた。また、歳を重ねる毎にアレルゲンが増してもいる。

学生時代から、バイトも含めて、随分と様々の職種をこなしてきたが、偶然にもシステム屋をしている。向き不向きでいうとそれほど向いているとは思わないが、それでも食い扶持を稼ぐためにはしかたがない話なのかも知れない。

結婚をした経験があり、独り身であったが、こんなメタボなバツありのところに遠いところからわざわざ嫁に来てくれる奇特な女性があった。よって、独り身では無くなった。二人身である。二人分の食い扶持のために働き続ける所存。止まらぬ汽車はまだまだ進むのである。

更に、娘まで授かってしまったので三人で暮らしている。家族となった。元来子供好きだったが、半ば諦めていたのでこれもまた僥倖である。家人には頭が上がらない。

というところで、更に、転職と転居を思い切ってしまったので、同じ片田舎であっても、南から北へ移動した。それは良いことかどうかはこれから答えが出るのではないか。

あと、システム管理者以外の業務が主なので「元」システム管理者になった模様である。

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