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片田舎で働く元システム管理者の日記 ver.2

日常の由無し事を書きつくっています。

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財務的思考に則る今後

どうしても、その類の話が多くなってきてしまうのは、やむを得ない事情であるが、まもなく、緊急事態宣言は解除されるとのことである。解除されれば終わりということでもないが、それによって、状況の変化が生まれることは間違いない。良し悪しは別の話としてであるが。個人的には全然治まっていない感しか無いのに、このような状況でよろしいのかと再確認するしかないとは思う。「経済がもたない」という主張はわかるが、そもそも、それほど長く持つと思われる経済状況ではないし、深刻に考えないとしても、BIの導入による様々の簡素化などの方法も先々は現実的な話かもしれない。そもそも、労働者が足りないというだけではなくて、その労働者は裏を返せば、消費者でもあるわけで、そのパイが減っているということには自覚的である必要があることだろう。

さて、私も企業に勤めており、その企業で奉職している以上はその企業のためになることをしなければならない。どのようなことがその企業のためになるか?は、その状況によっても異なるので一概には言えないが、誰もが組織に良いことをするために、業務にあたっているということであるとは思う。

私の担当分野は、IT関連、総務、法務、人事、財務などなど多岐に渡るが、概ね、営業活動以外の全ての経験があるといってよい。営業が強い会社の場合、それ以外の部署が弱かったり、人数が足りていなかったりというようなことが少なくないのだが、営業だけが強くても、組織としては成り立たないので、ある程度、それ以外の部分を組織として運営する人々の存在はなくてはならない。その中で、この騒動では「財務」としての思考を求められている部分が大きい。この騒動で財務的に出来ることは、ほぼどのような組織でも言えることであるが「手元資金を厚くする」の一択であり、そのために、即必要な資金でなくても借入を行うことが肝要であると思える。キャッシュレスといったところで、口座に資金がなければ企業は死ぬ。そうならないためには、口座資金を厚くするための方策を多くとらねばならない。その方法としては口座に残るお金を増やすために、固定経費を圧縮する。一時的にジャンプする。あるいは、補助金の受給をするなどの方法が取りやすい。銀行融資を受ける方法もあるだろう。このご時世で銀行融資は受けやすい。積極的に融資は受けておくほうが良い。そのようなことで、様々な書類を作成し、各自治体や金融機関に連絡をしているということでもある。

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GWと母の日

GWは到底ゴールデンではなかった気がする。ゴールデンで無くなった理由については言うまでもなく、「コロナ禍」による外出自粛の規制のためといえる。ところで、「コロナ渦」と記載してしまったマスコミも居ると聞くとどう考えても、完全な勘違いな気がして不幸なことであると思えてならない。それはさておいて、外出自粛については各個人の命をつなぐために必要な行為であったという見方が強く、そのことに疑いは無いと思える。個人あっての、国であり、国体であり、国家であるという観点から見れば、このように個人を守るというのは間違ったことではない。一部では沈静化しつつあるという見方もあり、もし本当にそのシナリオどおりに進むならめでたいことであると思う次第である。しかし、その結果、様々な面で被害が広がりつつあることはいうまでもない。このような国難というよりは人類に関する問題にどのように対応していくのかについては、それぞれの立場で決めていくしかないという話である。

GWといえば、福岡に在住していた頃は親類と少しだけ集まりつつ、タイミングによっては群馬県に向けての里帰りを行うタイミングということになっていた。それを考えれば今年のような何もない休みは非常に珍しく貴重というよりは類を見ない残念な連休であったといえる。家人も娘も実に代わり映えのしない毎日であったろうとも思う。シビアに見ているわけではないが、私よりも家人のほうが今回の騒ぎに対してしっかりと反応しており、不急の外出は避けており、娘の外出も極力避けるように動いている。私は勤め先が休みになるような業種ではないため、平常出勤している状況であり、このような騒ぎが起こったからといって、何ら変わりない。ただし、相手先の自粛が継続しているため、商談を含めて多くの事案がペンディングとなっているのは事実である。そこでテレビ会議でもなんでも、導入して進めればいいのであるが、案外とそういう話にはならない。その辺りが今勤めている業界の限界なのではないかと思えてならない。

かと思えば、先日は母の日であった。母の日に何をするのかと申せば、母に感謝をし、何かを贈る日である。遠路となった今では配送する以外の選択肢はない。今年もやっとのことであるが、贈ることが出来たのでまずは良しとしなければならない。どちらの母にも、つまり、家人の母にも高いものではないが贈ることが出来たようである。母に贈るということでいえば、あとは、我が家の母つまりは家人に何を贈るかを考えなければならない。家人はあまり物欲がない(というか、あるのだが、その物欲が結構大物に限定されている。例えば、趣味のための自動車を持ちたいというようなことなので、現実的な物欲として表出しない)ので、毎年、食事をしたり、洋服をプレゼントするなどのことぐらいしかしていないのだが、今年はこのようなご時世のため、外出もままならず、そのような選択肢を取ることが出来ない。非常にやりづらいことであるといってよい。

この2つの例をとっても、今の日本経済というところの不幸さはにじみ出るものである。この需要で多少は称揚するであろうはずの売上その他について霧散してしまったということでもある。先行きを考えれば、6月以降は様々な企業の話が表に出てくることが予想される。そのような段階を生きているということを考えれば、自分の身の回りの身奇麗さが改めて問われることなるのだろう。

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新年度、新学期、新入生とビフォー・アフター

4月である。エイプリルフールネタは別にして、新年度、新学期、新入生、新社会人などなど、つまりは、「新」ということである。「しん」「あらた」と読む。「心新たに」(こころあらたに)するということでもあるだろうか。

このような「コロナ禍」ともいうべき、「禍」(わざわい)の最中でも、時は止まることはない。いわゆる、世界中で使われている時間の基準はグリニッジ天文台で計測される平均太陽時のことであり、グリニッジ天文台は緯度が0度にある。そこからの緯度で各地の時間は決まっている。現在では別に原子時計による協定世界時というものもある。ほぼ、その2つは同じであるが、微細な差があるため、そのズレを「うるう秒」として調整されるということになっている。という余談はまあ良いけども、ともかく、時の流れはゆく川の流れの如くに止まることはない。ゆく川の流れが止まれば、流れるはずの水は何処かで溜まり、淀み、結果として別の厄災を産み出すきっかけになることが多い。そうならないためにも、区切りで「新」ということをもう一度考える必要があると思っている。

昨年の同日、私は勤めを変えたし、引っ越しもした。郷里を離れて、1300キロぐらいの長駆である。やっと一年経とうかというときに、このような世間になると誰が予想しただろう。国を挙げて、今は様々なところを支援する必要があるということもあるし、あるいは、英語でいえば「ビフォー・アフター」的な世の中になるやもしれぬ。この「ビフォー・アフター」というのがどのような変化になるのかについても、予想の範囲を超えるものではないし、どれだけ予測しても、そんな予測通りに世の中が動いくわけでもあるまい。

リモートワークが大きく発達し、世の中の働き方改革が進んでいくという予想をする人もいる。あるいは、多くの企業倒産が発生するのではないかとも予想する人もいる。ハイパーインフレを予想する人もいる。予測は様々に出てきており、そのどれもが「確からしさ」をそれぞれに出してくる。あくまで「確からしさ」であって、確かであるという確定的な何かではない。俗な言い方をすれば「それっぽい」という理由でそれがもてはやされ、拡散されることになる。

世の中の仕組みは大きく変わりつつある気がする。昭和生まれの私の記憶では、情報ソースは限られており、今のように遠方の人と簡単にやり取りをする方法は皆無であったから、得られる情報は今以上に画一的で、テレビで流行している歌謡曲などは老若男女が同じ流行りを知っていた。あるいは「昨日、○○観た?」というような前日のテレビ番組に対する会話。または、プロ野球の結果、一部の新聞報道などが情報ソースであったし、その結果、なんとなく画一性がうまれていた。現在は情報の拡散の範囲も広く、あるいは、その情報ソースも多様化し、場合によっては個人がなにかの情報を発信することすら出来る。このような世の中での「ビフォー・アフター」の予想は困難であるといえる。画一的な入口(情報ソース)を多数が得ており、それが共通認識になっているときには、多数が同じ方向に動く流れが生まれる可能性が高いが、それが画一的でない場合は同じ方向に動く流れが大きくなりにくい。

このように、世の中の仕組みは少しずつではあるが変化し続けており、今となっては共通認識を持つことも困難を極め、戦争論的な話でいえば、局地戦を繰り返すだけの負け戦のセオリーのような世の中の動きになりつつあるということでもある。その点が今の世の中の風景として、私に認識されており、どう考えても良い方向に流れているとは思えないなあと考えている次第である。まずは、家族が平常に動けるようになる日が早く到来してほしいと願っている。

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騒ぎが大きくなっている間に

「コロナ禍」で良いのかどうか。この騒ぎはどうしようもないことでもあるし、誰が何をしたからどうなったということでもないこの病気を発端にした騒ぎである。手の打ち方が気になるとか、色々な見方はあるのかもしれないが、結果としては、外出の自粛騒ぎが全世界で起こっているということでもある。

昔、小説でバイオテロをテーマにしたものがあった気がする。タイトルを思い出そうとしたが思い出せない。ここで「私の記憶が確かならば」と語り始められるほどの記憶力は今の私には無いようである。「私の記憶が確かならば」という言い回しの元は「料理の鉄人」ではなくて、アルチュール・ランボーの「地獄の季節」の一節であったと思う。アルチュール・ランボーはフランスの詩人であり、その原文はフランス語で書かれているが、学がないのでその原文をそのまま読むようなことは出来ておらず、日本国内で最も多く流通しただろうし、読まれていたであろう小林秀雄の訳によるものを読んだ記憶は朧気ながらある。その続きは「私の生活は宴であった」と続くものだった気がする(訳文では「私」ではなく「俺」だったかもしれない)。「宴」は概ね良い意味で使われ、柳田国男で言うところの「ハレとケ」で言えば「ハレ」でもあることではないかと思う。しかし、今回の騒ぎは「ケ」ではあるが、明暗の「暗」部分の「宴」のような気もする。「宴」は何かのきっかけをもって、始められるものであり、その「宴」は始まりや終わりを告げるものであることが多い。今回の「宴」がどのような事柄の始まりなのか。あるいは、終わりなのか。その結果は数カ月後、あるいは、数年後には結果が出るということであろうか。余談が過ぎた。

そのバイオテロのテーマの小説では、最後の解決への道筋はほとんどのフィクションにおいて「覚悟を決めた科学者や医者が特効薬のようなものを作ったり、ワクチンを作ったりし、消防、警察、軍隊などがそれをもって解決する」とか、「地下から過去の遺産のようなものが噴出して解決する」とか、「宇宙から謎の生命体が解決策を持って来てくれる」とか、そういったことがほとんどであり、それを能動的か、受動的かで分けると「小説的なお話の構造」が何種類か作れるというようなことである。これもタイトルを忘れてしまったが、小説の書き方のような本の中には話の筋を単純化し、分類するような手法を紹介するものもあって、ベストセラーと呼ばれるような小説もいくつかの類型にできるというような結論でもあった。その類型に納得出来る理由は現実の出来事もその類型のように進んでいく部分は少なからずあるということでもある。つまり、今回の騒ぎの結末は「特効薬やワクチンが開発され、十分に行き渡りインフルエンザと同様に流行性のなにかであると認識されるまで続く」ということではないかと思われる。

寡聞な中でも、そのような動きが進んでいることは聞き及んでいるが、そんなに短時間にそれを開発できたとか、出来るとかいう話は報道されていないので、もう少しは続くんだろうと思って、傍観しているところではある。勤め先の関係上、十分な注意は必要ではあるので、各種のイベントを全て中止(入社式とかそういう季節ですね)するとか、会議を減らすとか、出張を取りやめるとか、色々と事が起こっているのは事実ではあるが、それもこのご時世で致し方のないことであるとも思う。不謹慎の誹りを免れないとは思うが、私個人として思うことは「普通に暮らす」のが一番いいんじゃないのか。ということであり、それ以上でもそれ以下でもない。自分の日常を維持しつつ、周りの変化に必要以上に首を突っ込むことはせず、最小単位である自分自身、次の単位である家族、さらには、友人、職場というような少しずつ大きな単位に合わせて、出来るだけ日常と変わらないように毎日を過ごすことが正解なのではないかと思えてならない。慌てて何かをしたところで余計な混乱になるだけであり、そのようなことは過去の事例にも少なからず存在しているということでもあるのである。未来には学習することは出来ないが、過去には学習することは出来るし、起こっていない事態には備えることと心配することしか出来ないが、起こった事態には「最善の対処・対応」をすることが可能であるのだ。

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娘が8歳になった。

娘が8歳になった。

三日前のことである。全くもって、早いことだと思う。娘の成長は毎日楽しいものだが、自分で言うのも何だが、私が何かをして育っているという印象ではない。どちらかと言えば、自然と自発的に育っているように思える。それが人間としての成長なのかと思う。

転職という選択をした結果、私の郷里を離れ、家内の郷里へと引っ越しすることになった。転居はなかなか大変な思いをする。そうそう簡単なものではない。なにせ独り身ではないのである。家内も娘もおり、私の郷里には少ないながらも自分の身内もいる。

しかし、それらの問題の前には、家内と娘をどうするか?という問題があり、家内の中では娘をどう育てて行くべきかという問題が横たわっている。優先順位の問題で、その優先順位が夫婦では一致しているということでもある。少なくとも、社会に出るまでには、示しておくべきことがあるのだし、それを識った上で社会人としてのデビューを果たしていただきたいし、そうであってほしいと願っている。

転居は果たして、娘の心持ちに少しばかりの影響を与えたようにも思う。彼女には新しい友だちが増えた。土地柄もあるが、海外の友達も出来たと聞いた。日本的に耳慣れないその友達を私は面識が無いのだけれど、それぞれの出身の国柄が現れた性格や生活があって、大変な刺激であるようでもある。

2年生になった彼女には少しばかり勉強をするツールを増やした。いわゆるタブレット学習というやつである。思ったよりも面白がっているように見えるので、効果は高かったのではないかと思っている。また、スイミングに通い始めたことで水に対する親しみも得たようで、毎週通うことで、運動能力の発達にも繋がるのではと思っている。

かくて、転職し、転居し、転校し、なんとか半年ほどを送ることが出来た。あと、何年、この場で仕事をしているか?は、今の所はまだ見えないのであるが、次の事情が出るまでは今の生活を続けていく事になりそうであるし、家族を養うのに不足が無いのであれば、様々な選択があるようにも思える。若い頃にもっていた心持ちが長く思っていなかったことで錆びついていたようである。今年はその錆びついていた心持ちに油を差して漕ぎ出したような気持ちになっている。

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プロフィール

HN:
filemente
性別:
男性
職業:
シス管(半分引退)/パチプロ(廃業)/総務経理系の管理部門(現職)
自己紹介:
田舎で一人、中小企業で、システム管理をしているはずが、いくつかの僥倖もあって、ちょっとポジションが変わったことだけ付け加えておく。格別の特徴は無いが、体型は完全なメタボリック体型である。近頃、とみに体重が増えた。また、歳を重ねる毎にアレルゲンが増してもいる。

学生時代から、バイトも含めて、随分と様々の職種をこなしてきたが、偶然にもシステム屋をしている。向き不向きでいうとそれほど向いているとは思わないが、それでも食い扶持を稼ぐためにはしかたがない話なのかも知れない。

結婚をした経験があり、独り身であったが、こんなメタボなバツありのところに遠いところからわざわざ嫁に来てくれる奇特な女性があった。よって、独り身では無くなった。二人身である。二人分の食い扶持のために働き続ける所存。止まらぬ汽車はまだまだ進むのである。

更に、娘まで授かってしまったので三人で暮らしている。家族となった。元来子供好きだったが、半ば諦めていたのでこれもまた僥倖である。家人には頭が上がらない。

というところで、更に、転職と転居を思い切ってしまったので、同じ片田舎であっても、南から北へ移動した。それは良いことかどうかはこれから答えが出るのではないか。

あと、システム管理者以外の業務が主なので「元」システム管理者になった模様である。

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