料理が趣味と言って良いと思っている。食べることも好きだし、作るのも嫌いではない。いわゆる、「男の料理」に類するものである自覚はある(作ろうと思ったものの食材を漁るタイプ)が、一人暮らしも短くないので、大体のものはそれなりに作れるようにはなっている。
魚も焼ければ、肉も焼ける。鍋物だって作れるし、日常に食べるお味噌汁の類も大体作れる。煮物も作れれば、無論、飯も炊ける。大体、困らないのである。困らない程度に作れるというのは割と大事で、手の込んだものは気合いを入れて、レシピを見ながら作れば良いのであって、常日頃についていえば、日常で出される料理を手間を掛けずに作れるかどうか?に掛かっていると言って良い。料理そのものが負担になるようでは日常生活も覚束ない。
私の料理は割と簡単な基準に基づいている。「塩こしょうで大体のモノは食べられる」ということであり、あとは醤油をかければ良いということでもある。日本には調味料としての醤油が存在する。醤油というのは万能調味料の一種であると言って良い。醤油があればかなりのことは出来るのである。刺身にソースは厳しいが、ソースをかけて食べる類の料理(たとえば、とんかつ。お好み焼きなど)に醤油をかけても食べられる。日本人だからと言うことではない。それが醤油という調味料の万能さであり、利点でもある。この場合の醤油は大豆を原料にした醤油に限定している。同様の製法でも魚を使った魚醤などには少々の癖があり、汎用性は薄い。醤油という調味料があるお陰で、日本料理の進歩が一部で遅れているのではないか?と思ってしまうほどである。欧米諸国と比べれば、日本料理のそれらしく作るだけの調味料の量は極端に少ない。スパイスの類も素晴らしいものは沢山有るが、いわゆる西洋料理のように様々のスパイスを組み合わせる必要も無いし、インド料理のようなスパイスの組み合わせをする必要も無い。万能感のある調味料が多いことは日本人にとって良いことであると思える。
そのようなことであるのに、近頃は「メシマズ」というのがクローズアップされる。現実には昔からそういった人は存在していたように思うが、それが、今のような情報発信可能なメディアがあることや総批評家時代という様相が大きく様々のことを広める鍵となっている様に思える。「メシマズ」にもいくつもある。「料理を食べた経験が無い」「料理を作った経験が無い」「味覚的に自分とかけ離れた味覚特性の地域での生活を送ってきた」「そもそもやる気が無い」「レシピなどを読む気が無い」など枚挙にいとまが無い。過日このようなPOSTを観た。
「食事は一日にせいぜい3回。SEX以下の回数であるのにそれを蔑ろには出来ない」
このような事であった。また、いつぞに金の使い方の話でもこういう話があった。
「食事の回数は決まっている。今、ここで食べるものをケチってはならない。借金してでも特上を食べるべきである。それが出来ないようでは良い仕事も出来ないし、良い金の使い方が出来ない」
ということだそうである。極論ではあるが、間違っているとは思わない。
良いモノを知らなければならない。しかし、良いモノを知らないのでは物事の善し悪しは判らない。また、良いモノを知っていればこそ、貧しい中でも楽しめる事がある。ご馳走がチェーン店の牛丼という人間とご馳走がちゃんとした店のすき焼きという人間では常日頃の食に対する取り組みも違うのではないか。同じ材料を使っても、ほんの少しの火加減、水加減、高価では無い調味料を加える工夫で旨い食べ物を作りだそうとするのでは無いか。これはチェーン店が悪いと言っているのでは無い。振れ幅の問題で、上も下も知っていてこそでは無いのかという話である。
仕事に置き換えてもそうだ妥協するポイントが低い人間の仕事は見るに堪えない。高次のレベルのやりとりに前提条件の低い人間が混ざるとその議論は紛糾し、仕事のクオリティを維持する事は出来ない。この部分だけは年齢によって補える経験で積み上げることが出来るわけで、我々、中年に突入した世代はこの心掛けで若さとバランスを取りながら進むのが良い思うのである。
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