4月である。エイプリルフールネタは別にして、新年度、新学期、新入生、新社会人などなど、つまりは、「新」ということである。「しん」「あらた」と読む。「心新たに」(こころあらたに)するということでもあるだろうか。
このような「コロナ禍」ともいうべき、「禍」(わざわい)の最中でも、時は止まることはない。いわゆる、世界中で使われている時間の基準はグリニッジ天文台で計測される平均太陽時のことであり、グリニッジ天文台は緯度が0度にある。そこからの緯度で各地の時間は決まっている。現在では別に原子時計による協定世界時というものもある。ほぼ、その2つは同じであるが、微細な差があるため、そのズレを「うるう秒」として調整されるということになっている。という余談はまあ良いけども、ともかく、時の流れはゆく川の流れの如くに止まることはない。ゆく川の流れが止まれば、流れるはずの水は何処かで溜まり、淀み、結果として別の厄災を産み出すきっかけになることが多い。そうならないためにも、区切りで「新」ということをもう一度考える必要があると思っている。
昨年の同日、私は勤めを変えたし、引っ越しもした。郷里を離れて、1300キロぐらいの長駆である。やっと一年経とうかというときに、このような世間になると誰が予想しただろう。国を挙げて、今は様々なところを支援する必要があるということもあるし、あるいは、英語でいえば「ビフォー・アフター」的な世の中になるやもしれぬ。この「ビフォー・アフター」というのがどのような変化になるのかについても、予想の範囲を超えるものではないし、どれだけ予測しても、そんな予測通りに世の中が動いくわけでもあるまい。
リモートワークが大きく発達し、世の中の働き方改革が進んでいくという予想をする人もいる。あるいは、多くの企業倒産が発生するのではないかとも予想する人もいる。ハイパーインフレを予想する人もいる。予測は様々に出てきており、そのどれもが「確からしさ」をそれぞれに出してくる。あくまで「確からしさ」であって、確かであるという確定的な何かではない。俗な言い方をすれば「それっぽい」という理由でそれがもてはやされ、拡散されることになる。
世の中の仕組みは大きく変わりつつある気がする。昭和生まれの私の記憶では、情報ソースは限られており、今のように遠方の人と簡単にやり取りをする方法は皆無であったから、得られる情報は今以上に画一的で、テレビで流行している歌謡曲などは老若男女が同じ流行りを知っていた。あるいは「昨日、○○観た?」というような前日のテレビ番組に対する会話。または、プロ野球の結果、一部の新聞報道などが情報ソースであったし、その結果、なんとなく画一性がうまれていた。現在は情報の拡散の範囲も広く、あるいは、その情報ソースも多様化し、場合によっては個人がなにかの情報を発信することすら出来る。このような世の中での「ビフォー・アフター」の予想は困難であるといえる。画一的な入口(情報ソース)を多数が得ており、それが共通認識になっているときには、多数が同じ方向に動く流れが生まれる可能性が高いが、それが画一的でない場合は同じ方向に動く流れが大きくなりにくい。
このように、世の中の仕組みは少しずつではあるが変化し続けており、今となっては共通認識を持つことも困難を極め、戦争論的な話でいえば、局地戦を繰り返すだけの負け戦のセオリーのような世の中の動きになりつつあるということでもある。その点が今の世の中の風景として、私に認識されており、どう考えても良い方向に流れているとは思えないなあと考えている次第である。まずは、家族が平常に動けるようになる日が早く到来してほしいと願っている。
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