少し通り過ぎてしまったが、娘が無事に7歳になった。七五三的な考えでいえば、彼女も人の子になったということである。一個の人格として認めることは非常に大事なことであるが、それにつけても、近頃の娘の成長は著しいと思っている。家人は娘に色々と期待している部分もあるのかもしれないが、父と母では娘に対する目線も応対も違うものなのだろうと思えてならない。周囲の方々に恵まれていることもあって、無事の成長でもある。到底、私だけでは不可能であり、私と家人だけでも難しいことでも有り、友人の助けやら、周囲の方々の助けがあって、はじめて成り立っているんだと改めて感じることでもある。
7歳になる歳なので、彼女は今年の4月から小学生となった。小学生といえば色々とあるとは思うが、今の所は、学校も楽しいそうである。学校が楽しいと思える時代がどれ位続くのか?記憶は定かではないが、彼女にとって、学びの場が楽しくも、愉しい場所であればと思う。自分の芯になる「何か」。それも、綺羅綺羅とした「何か」。そんなものを見つけてほしいと思っている。人がいつまで綺羅綺羅しているのかはわからない。今の娘は私から見て、綺羅綺羅としたものを持っているように思える。それを彼女が失ってほしくないと願って止まない。
数日、私が家族について考えている時に、当たり前のことに、再度、気が付くことになる。それは、私にとって、娘は永遠に娘であって、その娘という属性を彼女自身が、進学や結婚や出産などのライフイベントによって、変化させたとしても、私にとって彼女の属性は永遠に娘である。私にとっては、常に一番可愛い娘であって、世界中の誰かが、何かを言ったとしても、あるいは、彼女が、何処かで他人から、何かを論われたとしても、そんな事は全く関係のない話であり、私にとって、最愛の娘であり続けるだろうということは疑いのないことでもある。しかしながら、あと、13年ぐらいすると成人して、世に出ていき、自分の元からも居なくなり…。そういった話も出て来るのかと思えば感慨深い。姉も妹も居ない私にとって、娘の成長の姿というのは、なかなかに不可思議なものを感じさせる。息子が居ても同じ気持ちになるものだろうか?と不思議に感じたことである。男女の差は後天的なものではなく、先天的な要素も結構大きいのだなあと思える。
娘が小学一年生なら、私も父親小学一年生。そんな父親小学一年生も娘が持っているような「何か」を見付けることが出来るだろうか。今はまだ娘にも、家人にも、到底及びもつかない「愚にもつかない」自分を顧みるばかりなのである。
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