残業代がなくなるのではないか?という議論について、ホワイトカラーエグゼンプションなる何とも言えぬ横文字の制度を導入しようとしたときのことを、もう忘れている人も少なくはあるまい。この制度そのものについてはそれほどの異論はない。年俸制の給与体系においては、労働時間はそれほど重視されない(本来は、時間外労働を行えば、その部分については上乗せされねばならないが、その部分については曖昧な取り決めとなっている場合が多い)。または、残業時間が月に40時間を限度として、計算されないなどの仕組みを導入している企業も少なくない。法に照らして、それがどこまでが合法で、どこからが違法か?という事について、私自身、専門家ではないので、判定は難しいのであるが、労基を含めた指導機関。あるいは、社労士などのチェックを受けた結果でそれらを運用しているであろう企業が、上記のシステムを運用している以上は合法性が担保されているという事だろうと思っている。
私は残業代を支払わない事に対して、否定的ではない。というか、正確には見込み残業、あるいは、職種による取扱いの差異があって然るべきだと思っている。製造業の製造現場において、どのような努力をしても、拘束された労働時間による生産活動が必須である為、その生産活動が必要な場合においては、残業代は確実に発生し、それは評価されなくてはならない。
しかし、例えば、コンサルティング業務のような業務時間に個人差がより多きな仕事については、時間をかけた方が報酬が多いというのはおかしな話で、短い時間で同じ結果を出したほうが評価されるのが当然ではないか。時間をかけずに同じ結果を出した人は残りの時間で別の業務までこなしたかもしれない。あるいは、新たな取り組みを始めたかも知れない。
立場によって、状況によって、あるいは、その働き手の考えや状況、勤める企業の企業風土など様々な要因によって、決定される事であって、画一的に「残業代」だけの議論を行うことが正解であるとは思えない。
https://twitter.com/noiehoie/status/223563537165991936
をご覧いただきたい。このような状況がまかり通るという世の中には疑問を感ずる。私は、圧倒的に「チンカチンカのルービー」派と仲良くなれるというところがあって、「徹夜したんすよ。寝てないんすよー。辛いわー」派とは仲良くできそうもない。理由は問わずである。手段が10あったら、どの手段がその人にあっているか?は判らないのである。莫大な費用が掛かるとか、とてつもなく、手間が多いとか、そういう誰が見てもの手順を除けば、残った手段は単なる好みの差であることの方が多い。この点について、某STAPのO女史の場合とは異なる。STAP現象については、特定の手順で発生するという事であるので、その特定の技術的な手順の問題を提示しなくてはならないが、世の多くの人はそのようなシビアな手順を求められているわけではないし、「5+1」と「1+5」あるいは、「3*5」と「5*3」は結果としては同じであって、その手順に必要を求めない場合においてはどちらでもよいのである(無論、勉強をしていく段階で先々の理解の為に順番を守って、立式するべきという考えについても完全否定はしない)。
話が逸れつつある。この議論について、画一的な残業代ゼロ。または、アルバイトは業務委託であるという理由で残業代を払わないというゼンショーなる企業のシステムについては同意できない。このような部分を解決しないのであれば、残業代ゼロに突入するのは、あまり歓迎できないのではないかと思う。
この問題がもう少し進んでいく中で、人が集まらないという事態が発生している業種や会社も存在する。例えば、介護の業種は他の職業と比べて、低く見られがちであり、そもそも、介護という職業を独立した職業として認識していない人が多い。夫婦にとって、自分の嫁が家にあって、介護を行うという前提で成り立っていた世の中。そのような世の中では今はあり得ない。関係者には十分な報酬で報いなくてはならない。コンサルが何を言ったところで、ITの技術者が何を言ったところで、痴呆症の老人に飽きもせず対応する、あるいは、下の世話をする。そう言ったことが出来るというのは大変なことであると考えるがいい。ましてや、他人のそれを世話するという事の障壁の高さである。
ある企業は「サービスを開発したくても技術者が足りない」という。しかし、技術者が足りないというのは言い訳に過ぎず、「流行(はやり)の興亡速度」が上がり続けるなかで、自社で技術者を育てるという事をしないだけに過ぎない。この場合の技術者が足りないというのは「瞬間最大風速として人が足りない」だけであって、継続的に人が足りないわけではない。一つのサービスが延々と使い続けられる事はほぼなくSNSという比較的息の長いサービスであっても、オレンジのSNSの凋落を観ても判るとおり、一歩間違えば、それは放置された廃墟のごとく、落ちぶれていくというのが世の定めではある。平家物語の一説のごとく、それは、「盛者必衰の理」があるということであり、「奢れるものも久しからず」「ただ、春の夜の夢のごとし」「たけきものもついには滅びぬ」「ひとえに風の前の塵に同じ」と続く。つまりは、サービスが落ちぶれた時、次のサービスをすぐに作り出せなければ、再び、人件費という費用がのしかかり、人切りという事になるだろうし、最大手のいくつかがシステムの見直しをしようとしており、それは業界的にも信じられないほどの人月が必要であると言われている。その為に、人を集めているというのは、同じ業界にあれば、耳に入るし、実際に、誘われることも少なくない。私のような地方にいる人間の耳に入るぐらいであるから、東京にいる技術者の方々には最も身近なものなのではないか。しかし、それもまた、一過性のものであって、継続的に、その仕事があるわけではない。
「障壁」「一過性」「報酬」これらのことは、それぞれに深い関係性があり、バランスを取りあった結果、着地点が決まる。このバランスは企業と労働者との間では、双方が完全に納得できる着地点とするのは厳しく、どちらかが譲る場合が多い。これも、譲り合いであれば良いのだが、長い不況の間に企業側の立場が強くなりすぎて、労働者側が譲ることが当たり前になり、それがまかり通ってきたという事である。
どちらか一方が正しいという事を言うつもりはないし、どちらか一方が間違っているというわけでもないが「程よい場所と両面性」が物事にはあり、それを「道理」や「理」というのであって、「道理」も「理」もわきまえないままで、先に進む事は出来ない。新社会人が退職した事についての話題をよく見かけるが、それもまた、「道理」も「理」も通じなくなった事が原因ではないかと思うのである。
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