自ら、何か喧伝するようなまねをするでも無いが、昨夜半からiPhoneの通知が鳴り、なるほど、誕生日であったなと気が付いてはいたことを再認識する。誕生日という自分自身の大変にプライベートな話に周囲の方々からの「おめでとうコール」を受けるというのは照れくさいような何やら嬉しいような。そんな気持ちにはなる。それは子供の頃とはまた違うものである。やもすれば、自分の歳が何歳だったか?を数え直す時もあるぐらい。ある程度の年齢を迎えたものにとって、年齢というのは特別な意味を為さない。
30半ばにもなれば、それが少々前後したところで、仕事の付き合いのある人々にとっては大差無いし、もし、その年齢差を語り、何かの原因にでもしようという動きがあるというなら、それはまた、別の話と言って良い。そのような人はそのような世界で生きていれば良いのであって、少なくとも、私の世界には馴染まないという気がするのだ。
長広舌は得意とするところでは無い。文字の上ではそれなりだが、実際はそんなに口が達者な方では無い。いや、昔は達者だったということを思い出せる。有るときに喋れなくなったというのが正しい。一つには少しばかり病んだ時の後遺症かも知れない。内弁慶、外弁慶という意味で言えば、昔は内弁慶だったが、今は圧倒的に外弁慶で有り、自宅でそれほど喋ることもない。家人と不仲であるとかそういうことでも無い。
ただ、喋ることが無いのだ。自分の中で。これはむしろ良い傾向なのでは無いかと思うのだ。私の中の様々は、私の中で解決されており、家人には迷惑を掛けずに済んでいるということでもある。思い悩むことが無いわけでも無いし、脳内から全てが消え去るわけでも無いが、自分の中に壁のようなものがあって、その壁は自らを律して、据えておかなくてはならない基準を据えているということでもある。
近頃は融通無碍な自分を見出せたような気がする。これは良い事だと感じる。頑固であるとは言われるし、その事を認めるのにやぶさかではないが、私の頑固さは昔と比べて、随分と大人しくなったように思う。20代は今よりも狷介で、人に話せないような薄暗い人間だったし、それより前は狷介では無かったが、声を大にして、前に進むようなタイプであり、今観れば、微笑ましさも沸くだろうが、同窓にとっては単なる迷惑なトラブルメイカーだったに違いない。それらを経て、今の自分が居るということには一時期の茫洋とした、もう薄れゆく記憶の中にも残っている。今の自分を好いているということではない。ただ、それは仕方の無いことで、自分で意識して変えていくより他ないのである。
「これより他に道は無し」と心に決めた道筋が絞られたわけでも無いし、何か職人の修行をしているわけでも無い。思う様、自分のことを変えてみる。これぐらいのことは出来るだろう。それぐらいの時間も自分には残っていると信じたい。
多くの祝辞に感謝を。ありがとうございます。自らの誕生日で歳を重ねたことと同様に思うのは、「そういえば、今年はあと幾日も無い」ということに他ならず、暮れていく今年について思いを馳せつつ、「終わりよければ全て良し」の言葉を守れるかどうか?が、一つ身近な目標に加わるのである。
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