なんというか、日記的な運用を目指してみたところが、今となっては月記のような羽目になっており、自らの適当さ加減について改めて思い立った。思えば、文章を書くことは嫌いでは無かった。けれども、優先順位は時と場合で変わるもので今は少々優先順位が下がっているということかも知れぬ。
梅雨が明けた。梅雨というのは必要な季節で有りながら、苦手な季節といってよい。個人的に夏があまり得意では無い。生まれ月が関係有るのかどうかは知らぬけれど、10月の生まれであり、冬生まれとして苦手ということはあるんだろうと勝手に思っている。
今年の夏はどうするか?と毎年の様に考える取り組みがあるには有るが、その暑さに耐えられるかどうか?を優先に物事を考えてしまうので、その事にまで追いつかないで居る。自分の自堕落というのはそういう部分を指すんだろうと改めて感じる。
そういえば、参院選の選挙カーの演説が暑苦しさを加速させる夏である。国政に限らず、都道府県、市町村ベースも含めれば、そこそこに選挙というのはある。特に何処に入れるというのは本人の勝手であるし、主義主張は各人の自由であると思っているので、私はどのような選択肢を選ぶ人が居たとしても、その人との縁を切るというな事はない。その主義主張が、私とかみ合っていなくても私以外の誰かとはかみ合うのだろうし、その事についてとやかく言うことは、私があらゆる面で大切だろうと思っている。多様性に対する否定に繋がると思っている。
今月、来月辺りは少々の「遠方より友来る有り」が多い。遠路を訪れ、私との時間を持ってくれようとしてくれる人々に対して、感謝の念がある。そして、自分の考えとは違う考えや思慮感じ取り、行き詰まりを打破する一歩目になったりする。自分自身の行き詰まりについては常々考えているのであるが、その行き詰まりが自分自身に原因があることが8割程度あるように思える。世情や環境などの関連する事象によって、自分が影響を受けていると考えるのは少々考えすぎの感があり、本来は自分自身の身の処し方以外には物事を動かす部分は無いと言って良い。
自分自身の身の処し方などというのは人から言われて変わるモノでは無いと思っていて、自分自身の強い信念のみがそれを変える事が出来る、それも長い時間を書けて培っていかなくてはならない。「明日から出来る○○」「劇的に変わる○○」など多くの本や事例が紹介されて、あたかも、それが魔法のように願いを叶えてくれるのではないかと錯覚させるようなことは多いが、実際にはそんなことは無く、スポーツの経験や資格試験への取り組みの経験がある方なら解ると思うが、長い時間をかけた努力と執念が実を結ぶと言って良い。当然年齢やステージによってそれは変わるモノだが、基本的にはかけた時間が全ての源ではあると考えている。掛けられる時間は若さ(残された時間)や立場によって異なるとは思うが、まだ、三十路。まだ、命脈尽きるには早かろうとは思うのである。
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