GWが終わったと思えば、気が付けば、6月であった。あっという間に時間が経つなあと思う。忙しさを理由には出来ない。ただ、自分を律することが出来ていないということだろうと思っている。雨は少ないが梅雨入りもした。一年の半分が過ぎようとしている事に多少辟易し、日々の生活について考えているうちには、果てしなく続いている仕事という事について少々妄想じみた何かを感じて、あるいは、明日からは何もしなくて良いのではないかというようなことを考えてしまうぐらいにはすり減っていたようにも思えた。そういう三十路である。
自分で自分の考えている事を前向きに何かの形にして、顕わにする事を避けるような性質は誰でも持って居て、大人ならそれが嗜みであると言わんばかりの事なかれ主義と空気が読めない程度には強気に出てくる主張とどちらが正しいのかという答えは私には出せないものであると結論づけて、私は関わりなく「柳に風」で生きていたいと思っていたのであるが、当事者である事を前提に話を進められるような事ばかりで「渦中」に投げ込まれるという事が多くなり、消え入るような声で「そうですね」と答える事が段々と増えてくる。
「心の安静」などという安い言葉で解決出来るようなことでは無い。そのような心持ちになって、数年が経過しようとしている。キッカケは何か?と言われたら、そのキッカケについては思い出せない。しかし、周囲の動きに対応した動きを自分が行っているうちに没個性とも言うべき何かが発生し、自分自身の身動きを知らず知らずに制限しては居なかったかと、年に数度は思い付いた様に豁然となるわけだが、そのような事は永遠と続くようなことでもなく、禅の種類で言えば、私は「漸悟」なのだろうと思っている。到底「頓悟」の境地にはたどり着けそうも無い。
娘が8月で2歳になる。2歳がどういう年齢なのかは私には少々不明なのだけども、物心というのが段々と付いて来る年齢なのだろうとは思うのである。人で無いモノから人へと変わっていくような様子があるんだろうと思う。それは生物としての人であるかどうかではなくて、心の持ちようであり、彼女が成長するにつけ、「個」として立っていく過程を間近で垣間見ているということでもあるだろうと思う。どのような大人になるかということを予想することは困難だといってよい。月並みな事かも知れないが「人に迷惑を掛けない大人になって欲しい」というのはある。ただ、「人に迷惑を掛けない」というのはアクティブに前に出ないということも無いし、目立たずにやって欲しいということでもない。人は生きている上で関わりを持たずに生きていけるわけでは無い。その関わりの代償として、金銭というモノが存在していると言って良い。
あなたが食べたものはあなたが材料を栽培し、漁業を行い、畜産を行ったわけではあるまい。そこにはその行為を仕事としてさらに言えば、誇りを持って行った人が居るのであって、その事で食べられるということである。逆に、自分自身の生業を通して、某かの関わりの代償として金銭を得ているということでもあり、その金銭の循環が最小単位を家計とした経済としてぐるぐると渦を巻いているということである。その渦の立ち位置によって、自分がコントロール出来る金銭の金高が変わってくるということである。より多くの金高を得る立ち位置は、それに伴ったリスクが存在しており、そのリスクまでも呑み込む。または、コントロール出来る人だけが、その立ち位置を守れるということだろう。
そう言った事を話す時が来るのか、気が付くのかは今のところは解らぬけれども、彼女自身もそんな循環の渦の一人として、世に出ており、自分の意思で動かせる要素が増えて行く過程をどのように乗り越えていくのかを眺めていく事を愉しみにしている。願わくば、当たり前にそれらをクリアし、独立の道を早期に歩んでいただきたい。私と家人には娘とは関わりのない時間が待っているはずだし、その時間を持つ事が許されるぐらいには、今の日本人の寿命は長いと言って良い。
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