貌とは、かたちと読む。形でも、型でもない。カタチとも書きたくなかった。貌と書きたかったのである。私も現状のステータスとして、独身ではないので、経験者としてでなく、現在、そうである者として考えることを得た。
http://anond.hatelabo.jp/20120721222138
のことである。一部で話題になっていたように思われた。ここで問題になっている事の根源は、この夫婦のバランスが悪いということがあるのではないか。自分が興味が無いことに対して、時間を割いている夫に対しての苛立ちが書かれている。
私もこのご主人と同じように多くのSNSに時間を割いている方だと思う。一日中、それだけを眺めている訳でもないし、それだけで完結する職に就いている訳でもない。しかし、そこにはコミュニティがあり、関係性があり、多くの示唆に富んだ発言があり。自分自身の困り事を助けてもらったのも一度や二度ではない。
家人も私とは違うスタンスで独自のコミュニティがあり、私には伺い知らぬ関係性を作り出しており、SNSも利用している状況があるとはいえ、それぞれには不可侵ではある。夫婦であっても他人である。ただ、その他人同士が思い合って、一組となっているに過ぎない。その一組のルールはそれぞれの夫婦が独自に作り出せば良いのであって、類型的な何かに影響をされるような類の事であってはならないと思っている。
例えば、昭和の時代には、主人は主人然としていなければならず、夫人は夫人然としていなくてはならなかった。専業主婦も今よりも多く、専業主婦の心得のようなものは今よりも明確にあった。それは恐らく、今のように電化製品の発達していない時代の家事がそれだけでも重労働であったし、それだけの時間を取られる作業であった事の証左でもあるだろう。時代の移り変わりによって、その辺りも変わってきて当たり前のことではある。変わってきたから、起こる問題もある。私は専業主婦だったことはないけれど、一人暮らしを長く送ってきたので、家事の要諦については解らないでもない。実際、一人で暮らし、自炊をしてきたことで、恐らくは平均的な主婦のお仕事をこなす事が出来るだろう。その経験から言えば、専業主婦が重労働であることは認めるが、自分の時間が無いほどに忙しいとは言い切れない。そんな中で、その時間を何処に持っていくのかが大きな問題となってい、近頃では専業主婦がネットゲームにハマり、家事を放棄するなどということすらあると聞く。このような事になっては元も子もない。専業主婦で有って欲しい理由が、男の矜持にあったり(それは愚かなことであると思うが)、他の理由があり、それを出来るだけの収入や気遣いが出来るなら、それは本人たちの選択であって、素晴らしいことではないかと思う。しかし、それを選択した事でこの奥さんの視野は大きく狭まってしまったのではないかと思うのである。
子育てを始めて、最初期というのは赤児はいつ泣き出すか解らぬ。自分が世話をしなければ、命を落とす可能性のある生命を身近に置く事で気を抜く暇が無い。また、ほとんどの場合、専業主婦として夫人が家庭に入った夫婦の場合、家事や育児の分担ウエイトが夫人に掛かる場合が多いし、主人側もそれを当然と見てしまう節がある。そうなると途端に身近にいる赤児と自分たちが住む家とその周辺程度までしか、意識できる範囲が無くなってしまう。そのことで、視野が狭くなってはしないかと思うのである。
我が家では家計的にも共働きの方がベターであろうということでもあるし、何より、家人が家にこもることによって、そういった視野狭窄に陥ってほしくなかった。積極的に家人に外に出ることを推進し、娘の0歳時保育へと舵を切った理由はそこにもあるのである。確かに、忙しくハードではあるだろうが、家人が娘と離れて、一個の社会人たる時間が有ることは夫婦にとっても、娘にとっても圧倒的に良い方向に働くと思えるのである。心身の健康という意味において、この選択は正しいと思っている。世間の専業主婦の女性は思うところがないなら、自らの小遣いを稼ぐようなつもりでも構わないので、外に働きに出てみると良いかもしれない。収入を得ると同時に、自らの新鮮さと同時にもし非協力的であると言うなら、そのご主人への言い訳をさせないためにも最も有効な行動であると思うのだ。仕事を真剣にする人であれば有るほどに、労働している相手に対しての協力や感謝や尊敬を惜しまないものであるからでもある(そこでご主人の姿勢や仕事ぶり、または能力を図るものさしにもなるかもしれない)。
夫婦は、概ね、同じ方向を向いている必要があるように思うが、その上で、完全に同じ直線を歩いているという意味ではない。多少のズレがあっても良い。ただ、着地点として夫婦が納得できる近しい場所か、全く逆方向であっても、腑に落ちる場所に着地すれば良いのである。それこそが夫婦の貌なのである。似たもの夫婦とはよく言ったもので、長年の暮らしの内に行動や判断基準が似てくるのだろう。そんな似た者夫婦に納得出来ないほどに風変わりな子供が育つわけもなく、夫婦の貌を拡大すれば、それすなわち、家族の貌ではないか。夫婦が子を持ち、家族になり、そして一家を成すのである。形でも、カタチでもないのである。そういった形式の話ではない。風貌という言葉があるようにそれは感じさせるものである。目に見えるだけのものではない貌であって、色付くのだ。無理してすることは無く、無理をしなくても作れるものではあると思う。そのような貌を作れないのなら、それを納得出来ないままで一緒に暮らす必要を全く感じないのである。別々の道を歩けば良いのだ。
別れを選べない理由が「自活できない」「働きたくない」などの理由の人も少なくないらしいが、私にはそれこそ理解が出来ない。そのような言い訳をするほどには人生は長く無いと思っている。このような言い訳は卑怯者の言い草であって、相手に文句を言うべきではない。自らで自活し、自らの思うような暮らしをすれば良いのであるから、それを選択しないならば、そのような不平不満を述べるべきではない。また、そのような家庭を不幸であると心底思うし、その場に居られる事を私は信じられないでいる。自らの生き方は余儀なくされるべきではない。自ら選ぶべきで選んだ以上はそこに最大限の努力をし、周囲の生活者への感謝と尊敬の念を持ってしてするべきであると思うからである。私は精一杯が夫婦の貌と家族の貌を良い物にしていくと信じて疑っていない。
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