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片田舎で働く元システム管理者の日記 ver.2

日常の由無し事を書きつくっています。

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選択肢としての学校

この事についてはあまり触れるべきではないかもしれないと思ったが、昨今、話題になっている大津の自殺の件で考えたことがある。これの不幸さについて言い出せば、枚挙に暇が無い。例えば、被害者を受けた少年の不幸については言うまでも無いし、そのご両親の心を考えたとき、到底、それは平静で居られるようなことでもあるまい。同じく、子を持つ親として、我が子がと考えれば、相当に辛いであろうことは言うまでもなく理解できるし、何よりまずは自分自身を責める。その上で、我が子がどのようなことであったのかを知りたいと願うのは当然のことではないか。そして、加害者とされる少年たちについて、様々の憶測もあり、色々と状況的によろしくないことになっていることはあるが、それでも、今、表に出ている事象が事実なら、それは十分な犯罪行為であって処罰されなくてはならない。子供だからという理由にはならないのだ。子供であっても犯罪は犯罪である。その事について、親は指導しなくてはならないはずなのだが、どう考えても指導しているようには思えず、我が子を守るためとは言いながら、延々と自分の子供の行為の正当化に終始する状態でもあるという。これは到底正気の沙汰とは思えず、私には異常に思える。立場を利用すれば何でも出来るのか?という疑問すら沸いてくる。これではあまりでは無いか。
そして、学校側の責任も到底ゼロではあるまい。モンスターペアレンツの問題が言われて久しい。何か事が起きるたびに親がしゃしゃり出るというような事は私の頃にはそうそう無かった(実際にはあったのかも知れなかったが、私の周囲ではそれほど多いことでは無かった)。それが当たり前になって、学校側は崩壊していると言われている。知人の子供の参観日の様子を聞くと、うろうろと席を立つ子供が居たりということは当たり前の様にあるという。授業中に座っていられないような子供が居ただろうかと考えたら、私の頃は居なかったように思う。授業は当たり前のように座って受けるものだった。これも教師が強く出られない土壌があるのかも知れないと思う。

私が小中学生だった当時、学校の教師は、今考えれば、全ての先生が正しいとは言わないが、概ね、私たちを正しいと思われる方向へと導いてくれていたように思うし、親からの信望も厚かったのではないか。確かに、中には変わり者と言われる先生も居たが。私たちは尊敬もしたし、親たちはこう言ったものだった。

「あんたが悪い事をしたから叱られるんだよ」

10の内、10がそうだとは言わない。確かに、今考えても理不尽なことはあった。最も、理不尽だったのは宿題をしたノートを忘れた私に「宿題そのものをやっていないのに嘘をつくな」と決めつけた女性教師で、私はこのこと以来、この女性教師とソリが合わなかった。当時、自宅から学校までは子供の足で30分ぐらい掛かっただろうか。その道程を戻るわけにもいかなかった。今ならあるいはさっと走って戻るなり出来たのかもしれないが、小学生にはその時の先生の決めつけに対する論理的な反論など浮かばず、今思い出しても、あの時は本当に悔しくて泣いた。教師は自分が叱ったことで泣いたと思ったかもしれなかったが、私は悔しくて泣いたのだ。幼い頃の記憶などほとんど残っていないが、そのようなことだけは直ぐに思い出せるものだ。人間の記憶というのはなかなか面白い。他にも幾つかあったが、中学校の頃は体を壊していたので、あまり中学校の時も思い出というものはない。その時の担任ともあまりソリが合わなかった。なんとも自らの指導力不足が明白な女性教師であり、体調不良であるという私に登校を強いた。結局、私の体調は更に悪化し、おおよそ、中学二年生から、中学3年生の夏休み前まで療養を余儀なくされた。そういった黒歴史的な学生時代を演出した教師がいた事も覚えてはいるが、その二人以外の教師には大変に恵まれたといって良い。その他の時に叱られた理由には子供特有のいたずらや考え無しの行動もあったように思う。それは怪我の可能性のある遊びをしている時などがそれに相当するが、それらの行為を叱ってくれる相手ではあったようには思う。
私が偶然に出来た先生に当たったからかもしれないし、今ではそういった先生は少ないのかもしれない。時代の移り変わりといえば、それは単純なことかもしれないが、時代の移り変わりだけでは解決できないだけの物があるに違いない。

問題はいくつかあるだろうが、まずは、職業として、教師を選ぶ人々に対して、制度的に安直であるということはあるかもしれない。4年制大学に通った者なら解るはずだが、教員免許そのものは、それほど取得困難ではない。多少、同級生より多くの授業を選択すれば、取得可能な部類のものも少なくない。都道府県別の採用試験については別問題ではあるが。まずは、その点について大きく触れられてい、教員に対して、教員免許の期間を設ける動きがあった。この点についての良し悪しの判断を私が出来るほど勉強していないので、良し悪しについては述べない。ただし、割と安直に教員免許が取れるということについては事実である。

次に教員の収入について、確かに昨今の世情を考えれば安くはないのかもしれない。世情を考えずにみれば、決して、高いと言えるかもしれない。しかし、職業を考えれば、それは高いとは言い切れない。よくよく考えてみるがいい。我が子ではない子供たちを預かるということの責任の重さ。そして、年頃になり、思春期を迎える子供たちの相手をする。それは精神力がそがれる行為ではないのか。我が子であってもそれが難しく家庭崩壊などという事態が起こる。それを不特定多数を相手にするということがどれほど困難かということである。そう考えれば別に高いとも思えない。私が思うに、もっと厳しく教員になる為の教育を行うと同時に大きく収入を上げて、そのステータスを上げるということである。その代わりと言ってはなんだが、医者並みの激務となるほど、厳しく様々の行動や倫理観、専門教育を含めたプロフェッショナルを教育する仕組みへの改変が望ましい。この方法は官僚にも使える方法であって、正しく国を導くことが出来るエリート官僚たちの収入を大幅に増加させることで、天下りなどということは起きないのではないかと考る。また、不正も起きにくくなるのではないか。最も生きの良い50代半ばまでを精力的に仕事に邁進することで、その後が十分に安泰であるなら、血道を上げて、一所懸命に働くのではないかと思うのだ。人間は貧しくなると心が貧しくなるものだ。十分に評価されていれば、邁進できるものなのである。理念や理想を追えない(負えない)ならば、その職を去るべきではないのかとも思う。特に、それが各人の能力や倫理観に伴う職業であれば有るほどにそれは明白であろう。

もう一方で、子育ての責任ということについて考える。子育ての責任とはいったい何処にあるのか。無論、両親がその最大の責任者であり、外に出た時の所行についての責任は親が取らなくてはならない。だからといって、

「○○では恥ずかしい」

などという諌め方は良くない。社会通念などというものはそもそも子供には存在しないのではないかと近頃思えてくる。間もなく一歳になる娘を観れば明白で、彼女にとって、我が家と祖母、曾祖父母。そして、保育園というような世界が彼女の世界の全てであって、まだ、それ以外の場所や他人に対して、世界は拡がってはいないように見える。その証左に今上げた人々以外には当然人見知りをするし、あまり、長時間の外出は疲労を蓄積させ、機嫌を損なう。これがもう少し、広く社会と接続されれば、彼女もその場その場の立ち居振る舞いを理解するだろうし、行動もかわるに違いない。そう考えれば、今はその限られた箱庭のような世界の中での指標はとしては、主に、私と家人であるので、私の家人の行動を範として彼女が行動するのは疑いようがない。子はかすがいという言葉が広くあるが、子供が親を写す鏡でもあるということも疑いの無い事実であるだろう。私も家人も恥ずかしい行動は取らないことに自覚的であると思う。私はあまり周りの目を気にしない。一つに没頭すると、後は、どうでも良いというわけではないが、あまり周りの眼に対して、意識しなくなる悪癖があって、よく家人にも指摘を受ける。そういった事も娘の眼に映ると考えれば、襟を正そうという気持ちもいやます。そして、前述のように、風聞や報道の類で言われることが全て事実であるなら、加害者側と言われる家族の行動を見れば、一目瞭然であって、「あのような恥知らずの所業に出てしまうようなことでは…」と思わざるえない。子を思うなら、そうならない努力をするべきではなかったか。または、そのような訴えを起こした子供に周囲の大人が目を向けるべきではなかったか。いずれにせよ。多くの問題が重なり、悲しい出来事になったのである。子を持つ親としてひとごとではない。我が子がどちらの立場になるのか解らないのである。「うちの子に限って」などと言っている時ではない。

学校に通うことが前提となっている社会。確かにそれは間違いでは無い。義務教育という事で、基礎学力を高めつつ、集団生活とは?について学ぶことは社会に出て働く上で重要な事ではある。その事を否定するわけでは無い。また、学生時代に知り合う仲間達との交流は良いものである。生涯にわたって関係が続くような相手は学生時代の友人が結構な数を占めたりする。

しかし、学校に行くことは前提であり、国としては義務教育と言っているが、この場合の義務はどちらかと言えば、当人に係る義務ではなくて、養育する親の側に係る義務では無いのかと思っている。つまり、ちゃんと教育を受けさせる義務ということだと理解している。

本人がその場に居ることを苦痛だとするような学校であれば、親の義務として苦痛で無い学校を探す必要があると思うのだ。集団生活というのは多少の苦痛を伴うものではあるだろう。自分勝手な行動だけを取れない。また、決まった時間で動く必要がある。それらの強制はその後の人生にも多少なりとも影響は出るだろうとは思う。これは当然、組織の一員として生きるための経験であり、必要な事でもあるとは理解しているが、それ以外の部分で何かの問題があるというなら、それは周囲が解決する必要があることでもあるだろう。子供一人の力で学校を探し、転校をするという手立てが取れる仕組みがあれば良いが、そのような仕組みは今の日本には無い。

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プロフィール

HN:
filemente
性別:
男性
職業:
シス管(半分引退)/パチプロ(廃業)/総務経理系の管理部門(現職)
自己紹介:
田舎で一人、中小企業で、システム管理をしているはずが、いくつかの僥倖もあって、ちょっとポジションが変わったことだけ付け加えておく。格別の特徴は無いが、体型は完全なメタボリック体型である。近頃、とみに体重が増えた。また、歳を重ねる毎にアレルゲンが増してもいる。

学生時代から、バイトも含めて、随分と様々の職種をこなしてきたが、偶然にもシステム屋をしている。向き不向きでいうとそれほど向いているとは思わないが、それでも食い扶持を稼ぐためにはしかたがない話なのかも知れない。

結婚をした経験があり、独り身であったが、こんなメタボなバツありのところに遠いところからわざわざ嫁に来てくれる奇特な女性があった。よって、独り身では無くなった。二人身である。二人分の食い扶持のために働き続ける所存。止まらぬ汽車はまだまだ進むのである。

更に、娘まで授かってしまったので三人で暮らしている。家族となった。元来子供好きだったが、半ば諦めていたのでこれもまた僥倖である。家人には頭が上がらない。

というところで、更に、転職と転居を思い切ってしまったので、同じ片田舎であっても、南から北へ移動した。それは良いことかどうかはこれから答えが出るのではないか。

あと、システム管理者以外の業務が主なので「元」システム管理者になった模様である。

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